ホップ

 

 

 

 

淡々と人間味がなくなってきている気がしないでもない。

 

 

 

会社の自販機で水(80円)を買うと当たりが出たためもう1本追加。それほど頻繁に当たる訳でもないからここは普通。ただ、会社の人達の振る舞いが微妙に変わっている気がする。ほんと微妙な気にしなければ見えないようなところなのだが、皆、微妙に当人になってないか。

 

同期はより緩くなっている。ストレス過多で散漫になるのとリラックスで緩慢になるのと結果的には同じでどちらかは外からでは分からなくて、個人的には気になっている。飲み交わすと愚痴が出るのか職場への賞賛か。他の人達もなんか微妙に入った頃と違う。仲良くなったということではなく、何やら見え方が違うというか。

 

人に影響を及ぼすような存在なのかと、ふと高次の話で、「実例」を見せたら相手は変わるのだという話がありまさかな、いや、ありえなくもない。面白いことにカントさんの「美学」でも同じく「実例」が出てくる。こちらは規則との関係で実例からは規則に至れないが、実例は1つの現象として大事という意味合いだった。たしかに「実例」をひとつひとつ経験から切り分けると、それぞれに固有性がある。

 

もしくは、僕の世界の見方がより素朴になっているか。

属性の前に存在するものが人の本質であって、アイデンティティも無関心だし、ドロドロとした物事や感情が本質である訳でもない。ネガティブとかポジティブとか日向とか日陰も。

 

方向とか明暗の観念って、あくまで相対的な位置とか光量であって、宇宙空間にただようデブリは動いているか止まっているかを絶対的には観測できないとかなんとか。

 

 

さておき。

 

政治に詳しい人ってどういう人なのだろうな。いまの政治は分かっていないが、そもそも政治とはという政治学は思索の範疇。ちらっと書棚(実際はただの残骸)を見ると、政治学入門の背表紙。共存のための技術だとか。

 

たしかに、素朴に数えられる人数を越えた国民を共存させるためには、一定の手法がないとまとまらない。学校の教室でも、同じクラスという枠組みあって仲間意識が設定される訳で、何万規模になると、それどころではない。最初の技術は、物語(神話)によって同じ根があるのだという信仰の下に結束させる。この神話は現代でも系譜としてはある。実利に訴えるとどうしても利益の衝突が起こる訳で。政党ももともとは層ごとの見解を汲み取ってより良い共存を目指すという思想で、その思想自体は高尚。いまはどうなのだろう。既得権益の層を守るためにあるような。

 

政治には法律もセット。国会(立法)と内閣(行政)が協働して行う。

利害調整のための司法。

 

でも、このシステムが本当に正しいのかは微妙なところ。

本当だったら既に全世界で統一的なルールが確立されているだろうし。

 

政治という単語が流れてきたから書いてみたが、全然詳しくなかった。

マキャベリ君主論は並んでいる本。

 

あと助詞の遣い方が気になるという話。

見る限りわざとかほんとに知らないか微妙なところ。まぁ、話が合わない人と関わる必要はなかろう。

 

ここから思索。

 

語用って文章を読まなくなるからかどうかは定かではないが、かなり主観的になる。自分が客観的に相手に通じると思っている言葉とか、ある一定の枠内でしか通じない言葉を客観的にするとか。これ自体は通じる人を分水嶺にするという効用もあるだろうし、別に問題はない。

 

ただ、僕は個人的に相手のその言葉が相手の中でどういう意味なのかを汲み取ろうとする傾向がある。この人はこの言葉をこういう意味で遣っているのだろうなという、推測とか想像の範疇だから、正しくはない。

 

でも、この主観的用語が語用として誤っているからと言って、馬鹿にするのはなんか違う。女性上司と同い年お姫様がやたらここを肴にして笑い合っているノイズ。正しい言葉を遣わないといけないという制限がかかっている。

 

ふつうのコミュニケーションにおいて必要なのは、客観的な正しい言葉ではなく、相手の言葉がどういう意味で用いられているのかをお互いが汲み取ること。ほとんど誰もしてないような感じがあるが、だから言葉が通じない(発信のみの視点)になるのだろうなというだけ。

 

ここでノルウェイの森を持ってくる。卒業できそうでできないところ。僕も自分が他人に理解されることを欲してないなぁ。僕の言葉(文章)は意味があっても僕の存在そのものでもないし、理解しましたと言われても困る。

 

受信側からしても、人の言葉は汲み取ろうとすることくらいしかできなくて、本心なぞ知る由もないくらいのスタンス。相手の言葉を自分の言葉に翻訳してしまうのは、相手の事なぞどうでも良いという所作だと思っている。

 

別にそういう人生劇場でも良かろうと思う。

 

他人って面白い。

鏡でありながら別の存在。

 

ワタナベはハツミさんが自己退場したタイミングで永沢さんを切り捨てる。

この小説、ある意味ベケット氏のゴドーぽくもあるな。登場人物のほとんどが自分の一部として語られている。唯一の他者は緑だけなのでは。

 

存在として感知できる他者って、仲間でも好きな人でもない。

そういった属性としての感情が無くても観測できる人。その上で仲間になるなり好きになるなりするならそれで良いが、だいたいの因果は逆。

 

で、最後に主観的な世界。

 

人間の素朴な感知って、時間の流れとは別にある。時間の概念が共通項としての発明品だから、ワタナベもこの観念にあくせくしている。

 

過去は別に過ぎ去ってないし、いまの自分の中に在る。

ここの感覚は修行層に近そう。省略。

 

言葉の読みとり。

本を読んでいるとき、文字を追っているのではなく、意味に変換して脳内で再展開される。人は文字通りに言葉を読んでない。そとの世界からの汲み取りとすれば知識として収集されてパンクすることになる。専門用語なんてどれだけ覚えたところで意義はなく、専門用語の中にある意味を咀嚼すること。

 

これを概念と呼ぶのか。知らんけど。

 

はい、おやすみなさい。

 

 

良い夢を。