縁(へり)

 

 

「啓示とは日常性の縁を飛び越えること」と「海辺のカフカ」のカーネルサンダースは言った。ただ、佐伯さんは日常の風景も明日失われると考えると特別な景色になると言う。これを同時に捉えると、全ては「いま」しかないだろうか。

 

さらにホシノ青年を相手にした哲学科の業者の女の子がベルグソンを引用し、「あらゆる知覚はすでに記憶なのだ」と述べる。「いま」を感得するものは知覚ではないとなるし、初めに読んだときに分からなかったが、微妙にズレた観念が巧妙に配置されている。

 

 

さておき。

 

夢は啓示的。たぶん「夢の本」の夢解きの影響。枕元に父親が立って、「災害を予言する」と言って消える。何が起こるのかと目を覚ますと、向かいの学校のグラウンドがオレンジに明滅している。火の粉が部屋の中にもチカチカして、これはまずいと部屋の外の廊下に出ると、そちらの方が酷かった。消防士風の人に「何故外に出たのだ、内に居た方が安全だったのに」と言われる。火事ではないよう。なんだったのだろう。なんとなく、ニコラ・テスラが想起された。

 

夢が何かの啓示になったことは今のところない。とはいえ、これから先は分からない。ただ、解いたしても地球規模というか日本規模のことではなく、もっとスケールが小さな僕のことだと思われる。災害=変更と解けば、実は外に出るのが吉だったとか。

 

 

現実では、意識が覚醒する前に、肋骨のちくちくが挨拶してくる。蒲団から起き上がる時に特に主張してくるが、負けじと二度寝前の午前9時に洗濯機をぐるぐる回す。痛みは喪失への不安と似ている。

 

 

仕事時間が仕事中にすでに記憶になっている。毎日気付いたら、うわ、もうあと30分しかないとなる。時間を意識するのは生きることにとって余剰である。その中で何をしているか、何を見ているか。睦言の時分に時間の経過が意識されないように。おそらく日常性って時間が否応なく意識される退屈な移ろいということなのだろうが、僕の移ろいの中にそういうものはない。

 

仕事が無い時間は、民法=一般的な私人間のルールの中における「物」との関係についての概念を思索した。試験対策にもなっている。ここにおける「物」って物理空間を占めるという意味での有体物なのだが、人がそれを所有しているとか、取引の対象になるというルールを持ってくると途端に観念になる。

 

たしかに現実とされる有体物の権利関係って、かなりややこしい。所有権であれば公示という概念で決められる。土地なら登記だし、車なら登録だし、公示制度がない物であれば引渡しが外に自己が所有していると権利を主張できる手段になるのだが、簡単に動かせる物については占有という概念が出てきてややこしい。

 

占有権は、自己が所有する意思をもって、ものを所持することによって成立する。ただ、ここでいう所有する意思も客観的に決められるのはともかく、「所持」とは当然直に常に持っていることではない。ではなんだろうって考えると、所=当人が支配する空間(場所)に、持つ=在る(空間を占めている)という意味であって、そうすると、色々ぴったり来るところがあるなと。

 

たぶん、法律を勉強している普通の方はこういったそもそも論は、既にインストールされている無意識で読めるから意識されない。僕はこういうのを1からやらないと駄目らしい。物がルールの中で「もの」になる過程をきちんと把握しないと。

 

こうやって解きほぐせたことが、法律談義として言語化できるようになるという。

ずっと知識としては収集してきたはずにずっと自分の言葉にできなかったのは、昨日の日記でいう情報でぱんぱんだったからなのだろうなという感じ。

 

 

具体的な裁判のニュースは法律が適用された結果というか氷山の先っぽ。それを当人の常識観で見ればズレたことになるのは確か。でも、その素朴な一般感覚をどこまでルールとして反映させるかというと微妙なところではある。だって、普通の感覚における証拠は自分の知覚と思われるが、外から客観的にそれが事実として認められるかとなると、有体物が必要で、ここにずれがある。

 

だから犯罪のニュースで報道された事実を客観的な真実みたいに捉えて正しいとか正しくないとか言えるが、あくまで語られている事実は認定できた事実であって、客観的な真実ではないことが認知されていないような。

 

 

現実に戻って来て。

 

個人的な生活観としては、ホシノ青年みたいに人が言うことはとりあえず間に受けるようにしている。そもそも物的に生きてないから場所は取らないし。

 

という感じで、昨日、自分って優しくはないよなと想起した話が最後。

 

「優しさ」がそもそもどういう物かということを説明できる人はほとんど居ないと思われる。僕は結構、当人にとって「都合が良い」、「害にならない」ということを優しいと評された歴史があり、やんわりトラウマの単語だから、優しくないと言われる方が良い。にもかかわらず関係が在るということはきちんと認識されているし、それでも良いとされているから気楽。

 

優しいを解きほぐすと、結局のところ、大事にするとか譲るとか、相手の要求に一致するところにある、はず。気遣いみたいなものも含め。

 

要は、やろうとすれば誰でも振る舞える所作でしかない。

言葉では特に。

 

僕はそういうことは表でも裏でもできなくなった。

人は要求に応えてくれないと折れるような強度が低い存在としてないし、そうなるのであれば、問題は他人にあるのではない。

 

そういう恐る恐るの関係よりも、相手に対する興味がある。

興味があるようにも振る舞えるし、だいたいバレないが、こちらは繕えないと思われる。そのうちぼろが出るという意味では優しさとも近いが、何か違う。

 

僕も当然ながら、僕に対して優しい人を求めていない。

 

あぁそうか、優しさは相手の為みたいなニュアンスで、興味は自分の為か。

ん、これも何か違う。

 

もうちょっと考えよう。

 

では。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。