読解力

 

 

卵を買い忘れた。そこで、長ネギで玉ねぎのオリーブオイル漬けをやってみた。苦くて癖になる。ほんとはもっとみじん切りした方が良かった気がするが。

 

起き抜けにねっとりした文章を読んでしまって未だに何かこびり付いている。胃もたれするわ。読解という語句検索で出てきた文章なのだが、こうしたら読解力が高まるみたいな啓発的なものではなく、敵対勢力(?)には読解力がないということに終始した感じだった。こういうのは美味しくない。

 

言語の権化みたいなウィトゲンシュタインさんがお手上げになったように、日常用語においては厳密に言葉を1義にすることができない。学問領域ではお互いに語彙の定義が専門用語で一致しているから議論ができる訳で。まぁ刑法学でいう「過失」と民法学でいう「過失」のニュアンスが微妙に違うとも聞くし、広い意味では同じ分野でも少し違えば概念が違うというのはありうる。

 

たしかに、文意から離れて都合良く言葉を読んでしまうというのはあると思う。人間は見たいものしか見えない、の言語版で。ただ、これが自らには全くなく、自分は文意を正しく読み取れていると想えるのは単純に凄い。神様みたい。

 

素朴な話、日常で語られる言葉って、文字通り捉えたところで正解になるとは限らない。なんで文章だと文字通り書かれていると想えるのかは不思議なところだが、そういう共通理解があるというか、ある意味信仰の問題のような。たしかに都合良く捉え過ぎるのはよろしくないが、人が読むのは文字通りではなく、もっと広く非言語情報も含まれているはず。

 

いや、僕固有の読み方なだけかも。人がそれを書いているということはそれに至る想いとか気持ちがあるはずで、それも含めての読み味。だから正しく読めるなんてことはない。学問分野は概念を丁寧に追えばなんとかなるが、哲学は意味を自分で再展開しないといけないし、素朴な人の文章だと、単語がどう厳密に定義されているかはその人でないと、むしろその人自身でも分からないかもしれない。

 

一般語用上では地域名、花の名前でしかない名詞に書いた人がどれほどの思い入れを詰めているかは、言葉を文字通りにしか読めなかったら馳せることができない。

 

こういうのが「もの」的読書なのだが、「物」的読書になると、やっぱり自分の見解に合う物ばかり集めることになるような。専門用語の威を借りるのはなんとも。僕はだいたいの言葉は美味しく食べられるのだが、自分が成り立つために相手を下げなきゃいけないような文章は中身が重たくてねっとりした物が残ってしまう。専門用語はいちいち書いていたら紙面が膨大になって先に進めないから共通理解を前提にしたコストカットの為にあるもので、共通の理解がない人に語るなら理解させるように砕かないといけないとしている。

 

 

さておき。

 

がらっと、ふわふわ彩る感じで。

恋人の定義。

 

僕は誰かとお付き合いをしているときも相手のことを「彼女」と呼ぶのがどうも引っかかって、恋人さんとしていた。なんで彼女という呼称が駄目だったかというと、語義上の「彼(お付き合い状態)の女の人」というのが腑に落ちない。最近は他にも「相方」とかあるよな。これも良きだが、僕はこの番的関係をパートナーみたいにしてない模様。

 

あくまで僕が恋している人という意味で、この呼称を無意識で選んでいた。まぁ広辞苑的な意味ではお付き合い状態にある人という意味も含まれているには分かる。だから昨日のフレーズ、方々に勘違いが起こりそうだとちと恥ずかしかった。別に宵顔さんと現実的に何か変化したわけでも無いし、現実的な何かを期待しての呼称でもないという。あんまり心配は要らなかったみたいだが。

 

なんで恥ずかしいのだろうなというのを掘り下げていくと、現実的関係も合意もないのにそういう呼称を遣うこと、に突き当たったのだが、これってほんとに個人的な関わりにおいて大事なことなのかと、また当たり前を剥ぐ思索が起こる。

 

お付き合いって、社会的な婚姻関係の下位互換みたいな感じで、付き合いましょう、そうしましょうという合意が当たり前になっている。(ふと花いちもんめを思い出した)

 

この合意(約束・契約)の意味とは。法律学の専門書、民法・商法を読んでいて、法律関係って、お互いの未来を拘束する約束事で、それを破ったら国家が無理やりそれを実現させることができるというもの。人類がある程度安全になって生存の可能性に見込みができたから、こういう概念が生まれた。もちろん、社会的な関係であればそれに合わせて良いというか合わせるべき。そういう一種のゲームみたいなもの。

 

憲法学で何故国家が暴力を独占しているかという社会契約も、合意として形成されているけど、別に国民一人一人がそれぞれ合意している訳でもなく、そういうものとするのが社会的に正しらしさがあるということ。国民を保護する義務と、国家を保持する義務との合意があったとする。神様が国家を創ったというよりは納得されやすい。

 

約束は破っちゃいかんというのは、こういった未来への拘束性がある。相互で未来を縛りましょうという合意。僕は待ち合わせには遅れないが、相手が遅れてきてもなんとも思わなかった。3時間くらい遅れてきた人も居る。

 

それは良いとして、婚姻という契約は社会生活上お互いが一緒に居るという約束だから良い。とはならない。我が家の父親と母親が想い合っている情景が1つも浮かばないし。なんで結婚したのだ、まぁ1世代前だししょうがないのか。いや、1つくらいはあるか。これ、でも姉からの伝聞形式だから定かではない。

 

あんまり彩っている感じはなくなってきたが、そもそもお付き合い=お互いを拘束する合意をする意味があるのかという話。僕は別に相手と無理矢理約束して未来を制限することしたくない。僕が奔放だからという意味ではない。1人で充分。

 

そもそも、約束したから思い合っているという当たり前観が合わなかったのだろうな。

継続が存在するという意志は常に今に在って、約束して安心するようなものではない。僕がこの認識でもともと生きたとしても、どの時系列の恋人さんとも継続できなかったのだろうなと分かってしまう。

 

当たり前の認識って、当たり前過ぎて認識できない。

 

宵顔さんとの恋人みたいな関係は、別に交信も交流もなく、ただ僕がその場を心地良いと思っているだけで、お互い離脱が自由であることが前提だから、未來に向けての安心は全くない。明日つぶやきで結婚しましたと流れてくる可能性もある。それでも良いしそれの方が良いくらいに恋してしまった。

 

想いが返ってくるのが当たり前の好意的な関係だという固定観念も剥がれる。無償の褒賞って、どこかに交換がある。

 

もうこの恋心は相手である宵顔さんでさえ壊せない。

関係に対してではなく存在に対してだから。

 

内面的気持ちと現実的な所作のバランスは難しいところだが、一応現実でもきちんと生きている(はず)。現実的な生活のほとんどは社会生活だし、そこに倣うとかは普通にできるししている。どっちが生なのかというと微妙なところ。

 

はー、なんとも幸せ。

 

無くならないからではなく、いつ無くなるか分からないからこそ大事。

自分の命と同じ。

 

はい、寝よう。

 

おやすみなさい。

 

間延びしていませんように。

 

おやすみなさい。