言葉の境界線

 

 

街の夢。季節が混在している。銀杏の黄色と桜のピンクが同時に並ぶ。道路には秋のように枯れ葉も散っている。夢の中でしか見られない景色。廃墟にはなっていないが誰も見かけない。遠目に先端がドーム状のビルが見える。知らない街。知っている光景でも夢の中で継ぎ接ぎすれば知らない街になる。既知と未知も時間の経過なのか。

 

目覚めてからも景色を眺めながら出勤する。田んぼには桜よりもやや濃いピンクがぽつぽつしてきた。暗がりの中の帰り道、寄りたくなる満開の桜の公園。見上げるとハンモックのような月。寝たらずり落ちそうだけれど。

 

 

仕事はちょっと人との会話がうまくいかなくなっていた。土日のブランクもあるにしろ、おそらくそこは問題ではなく、素で話していたからだと思われる。言葉の交換に齟齬がある。

 

(いや、貴方毎日業務していて自分がしている作業にそんなに無自覚なのかい)という内心で、こんなことも分からないのかではない。相手の方が練度をこなしているに違いないことであって、むしろフラットであると言える。でもやっぱりこれだと駄目で、もっと言葉を尽くして繋げないといけないのだな。記憶とか頭の回転の領域でもないような気がするが、気を付けなければ。もっと1から10まで。

 

こう考えると、昔の会話がズレがちだった僕も、実は相手の語彙に合わそうとしていたのかもしれない。これなら通じるかもしれないという目論見がズレる。今はどうだろうな。自分に発話の語彙が増えた感は全くない。

 

 

さておき。

 

本日の思索は「安心」と「心配」について、安心という心を配るという意味での心配は言葉としてできないものかみたいな。溢れたもののお裾分け。

 

安心は自分のナカにあるもので、心配は相手に向いたものという感じがあるからむしろ心の有り様が全く違うのかもしれない。安心の対象は自己が承認されることであって、心配の対象は自己、もしくは相手に「何か」(自分から心が離れるというのも含めた、自分にとって相手の悪い方向への変更)があることとしても水と油みたいな言葉なのかもしれない。

 

人間関係に絞ってみる。誰かに安心することと誰かを心配することは同一のエネルギー源からは発生しないように見える。個人的に、安心されるのはほっこりだが心配されるのは嫌だ。何故嫌かと考えると、心配は高きから低きに流れる対象を不自由にさせる要素があるからだとなった。

 

心配という言葉に付着するニュアンスとして、ほんとはしたくないということがあるのか。心は配るようなものではないのに、配らされているという受動的な強制感だから、返ってこないと損した気分になる。

 

なるほど、ここでの言葉も物みたいな感覚があるのか。安心の安らぐ心は自分の物である心が心地良くなるだけであって、お裾分けする気にはならないし、本来は心配りもしたくない。すべきときだけで良い。

 

僕は割と色んな人を心配しているが、それによって自分に労がある感じでもないのだよな。

人の心も現実も自分がコントロールできる対象ではないし、支配できる物でもない。

 

所有しているという感覚なのだろうか。ちなみに法律上の所有権の定義は「物を排他的に支配して、使用・収益する権利」だから、心の排他性の観念に繋がっているのかもしれない。

 

という感じで、言葉ではは安心を心配することはできなさそうなので、振る舞いでしようと思う次第。言葉には可能な意味(語義)という限界があるからどうしてもできないことがある。

 

そういえば、本日の夢について、お風呂読書していた後でシャワーを浴びているときに僕の心の中には無人の街が在るのだなとなった。自分の心像として「部屋」があるという観念の人もいらっしゃると思う。広狭はともかく(心の中に空間の大小はない)、観念的には同じことだよなーって。

 

これは物とはちょっと違って、もの性がある。物体ではなく、恣意的な壁。

都市の観念とも似ている。

 

1つ、境界がある。1つ、境界の外より内の方が比較的安全。現代日本には壁で囲うという物理的境界はないけど、地図上や風土上の観念の境界がある。

 

人間関係にも言語上の観念としての境界がある(今思い付いた)。

 

 

まぁ、そもそも言語表現自体が、言葉によって言語の中と外に境界を設定することだからか。

創世記の「光あれ」も、光を言葉で定義することによって光と光でないもの(陰)を設定している訳で。

 

あれ、この話どこに行くのだろう。

 

どうでも良いが、特に生活を変化させるものではない、安心する好きな人が現われてしまた。ここで言う「好き」の定義は言語上の境界で分けるものではなく、単なる感覚的なもの。

 

言葉としての心配は全然しなくても良い人。

これと言葉としての安心は無関係だが。

 

言葉を境界付けずに使おうとすると、注釈ばっかりつけないといけなくなって大変。

でも、そもそも言葉って注釈がないと扱えないというか、言語通りに読んでくれというのは、読み手に丸投げすることなのかもしれない。

 

僕は丸投げで全然かまわないけども。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。