自分不要論

 

 

 

無いものを今有るものとしないことも大事。今有るものを無いものとみなさないようすることはもっと大事。近くも遠くもない距離感。

 

アニメの作画調な夢。大蛇が出てきて食べられそうになったり、人の行列を見かけたり、ストーリー性があまりない。脈絡なく読書家の店長の喫茶店の年下の社員の同棲カップルが想い出される。かつて社員だった人は店を出した模様(インスタグラムで漂流したときに見えた)だが、彼女さんはどうなったのだろう。ふと、ずっと心配だったのだなということが顕在化された。

 

心配の本来の語義は心を配することであって、別に報いを求めるようなものではないと思うのだが、その心配に応じた安心が返ってくるべきみたいな風潮があるような。契約じゃあるまいし。

 

さておき。

 

本日も順調に寒い。寒いのも好きなのだが、指が上手く動かないのがやや困る。指のストレッチをするようになったからか、筋が鈍く痛い感じがある。特に仕事のキーボード。デスクトップだし、家と高さが違うから押すのに力が要る。ちなみに、ノートパソコンなのに「i」のキーがかけたため、Bluetoothの外付けキーボードを使っている。今度買うならデスクトップかタブレットとこのキーボードの組み合わせにしようと思うくらい馴れてしまった。

 

母親にお弁当画像を送り付けたら紅葉画像が返ってきた。鞍馬とかもちょうどいい感じなのだろうか。もう一回行ってみたい気分もあるが、個人的には誰も居ない空間でぼーっと紅葉が在るところが良い。って、実家の母屋だったわ。座れる紅葉と若めの紅葉が植わっていた。座れる紅葉にはブランコがかかっていて遊び場だったし、若めの紅葉は街灯(?)が隣接していて、夏場だとクワガタやカブトムシが飛んでくる。観光地としての自然が物足りないのはこういう生い立ちがあるからだろうな。不便さを度外視して森は今でもとても好きらしい。

 

百日紅金木犀も実家由来。

 

ともあれ。

 

仕事中、なにやら心が「ぬるぬる」した。「そわそわ」とやや近い感じだが、昨日の日記で肩甲骨はがしならぬ、しがらみ外しをしたものだから、心と慣習的意識の不一致を擬態語で表現するとぬるぬるになる。

 

この不一致は、おそらく自信という観念を外したことなのだろうな。上司と面談があって、この前の評価は女性上司があえて悪い例を選んだからであって、仕事ができていないとはしていないから、「自信」はなくさなくても良いよって言われたとき、あんまりピンとこなかったから。それより貴方の肌荒れが心配だわ、ストレス大丈夫かとは立場上言えない。女性上司の愚痴らしきものも聞こえてきた。「癖が強い」はおそらくネガティブなニュアンスだろう。僕の中ではこの言葉、ポジティブな評価だが。

 

女性上司はなんだか割ときつめというか、内には優しく、外にはツンツンみたいな感じで、僕は全く外ではないかなというところに居るように見える。なんだか、話しが通じてかつ雑談をいっぱいすることが近さの定義みたいな強迫観念があるような感じがしないでもない。僕はあんまり雑談に付き合わないが、別に遠くとはしてないと認識されてきたのかどうなのか。

 

自分を度外視して職場を眺めると、誰と誰が苦手同士で、話しかけるときに緊張感があるなぁとかの天体図が見える。先生はそつなく皆から好感もたれるようにしているなぁという感じ。僕はなるべく空気で良い。

 

ここで自信論。この自分を信じなきゃいけない信じるべきみたいな観念が無駄にストレスを生じさせているのではという試論。

 

そもそも信じるべき「自」とはなんなのかということ。おそらくアイデンティティとほぼ重なっているし、エゴとも同値。属性はアイデンティティにならないと思うのだが、おそらく人は自分の立場とか属性とか性質の相対的類型をアイデンティティとしていて、そこが傷付くのを痛みとしている。

 

痛さって個別的なものなのに痛いという言葉でなんとなく共有されている節がある。同情はあくまで自分だったらどれだけ痛いかを問題として、ほんとうに相手の痛みが分かることはない。これくらいの発熱でげんなりするのはどうなんだって平均体温から捉えたところで、平熱が35度と36度の人の37.5度は違うし。

 

痛みの話は良いとしてアイデンティティないしエゴ的自我の機能を考えてみる。これって、おそらく世界と自分の切り分けにある。自分は世界とは別に客観的に存在している。ゆえに、世界は客観的であるみたいな。ただ、この固有性のもとになるのが、属性とかの社会的類型なのだから、これを前提とする限り、どこまで行っても絶対的な自分になれることはなく相対的なエゴの中でしか生きられない。こんな自分要る?

 

世界と切り離された「身体としての自己」も、近年に発明された哲学的観念らしいということを「媒体の現象学」で読んだ。触ることは触られることで、本来世界と連動したものだったのに、個人と言う名の下に切り離されたのかな。

 

自分で在ることをそのまま捉えることと、自分を信じることは別物。キルケゴールさんは神は何でも可能だということで信仰によって人は救済されるということを書いていたが、信仰対象が神から個人に移行しただけなのかも。フラニーとズーイでもそういう話があったな。神への祈りを口ずさむことでそれがほんとになる。

 

僕がぬるぬるするのはこの辺りで、自分をエゴの対象としなくて良いことにした。

僕の中では設定された自分を中心として世界を捉えるのは天動説の生き方で、地動説であれば別に自分を無理に設定しなくても自分はどうしようもなく自分でしかないし、それは在るものであり無くならない。

 

世界の中心がズレることを許容すればぬるぬるになって既定された自分で生きなくて良くなる。

 

これで考えると、宗教って良く練られたシステムよな。何か中心というか拠り所を必要とする人の心の軸を当人から離すようにして、その分楽に生きられるようにする。エゴの重力はほんとブラックホール並みだから、個人としての重力から逃れられない。

 

要は、何か人生で目的を持っているとしなくて良いし、設定されている情念にも従わなくても良いし、無意識から出てくる経験則にも従わなくて良い。心の赴くまま。

 

個人的には、何か見えたとしてもそれに行動を合わせる義務はないという感じ。

もちろん合わせても良い。

 

僕の本質はただ読む人なのはどうしようもなさそう。

同期が服を新調していた。青みでまとまっていて好みの服装。(言わないけど)

 

自分が無いと不安であれば世界がどう見えるかの鏡が自分なのだよということになる。

感情だって対象が見えないと起こらない。感情も社会的感情と本質的感情がある。

 

どうでも良いが、歌の歌詞の解釈ができるようになってきた。折々聞いているバンプの、embrae、プラネタリウムスノースマイルにある「君」って、時空をずらした当人のことなのではないかって。想い人な感じではなさそうだから聞いているのか。

 

ぬるぬる。

 

時間を意識するって、生きていることにとって無駄な脳資源だなと思う。

終わってないあと何時間の仕事時間を意識するとか、終わった時間をいまと比べるとか。

 

しなくなったら、ずっと前のことがいっぱい出てくる。

(書かないけど)

 

最後に法律談義。

 

法律上の所有している物って、素朴には財産が移動しないというところにあるかもしれないが、本質は処分できるという可能性にある。物は意思によって移動させられる対象。

 

パートナーはどうなのだろうな(所有とはニュアンスがやや異なるが)。

 

長くなりそうだから強制終了。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。