自我

 

 

 

 

BGMを適当に流していたら、POPソングが流れてきた。出逢う世界線であったら良かったとか、設定がもっと良かったらとか。こういう世界観が人気なのだろうとは分かるが、僕はもう、どんな世界線でも楽しめるだろうし、任意で決めて良いって言われても、別にこのままの世界線を選ぶ。

 

類は友を呼ぶとか、似たものが引き寄せられるとかという、もう1つの勢力になりつつありそうな世界観からすると、無いほうに関心を寄せることによってそういう世界が起こるし、繋がりや共鳴に関心を寄せているとそういうことが起こる。

 

これももう少し素朴に捉えると、量子論みたいな話になる。量子の配置は確率的にしか把握できないとのことで、おそらく意識の傾向によって配分がちょっとだけでも変化されるのではとか。血液型診断みたいに、そういう傾向があると外から条件付けられるとそこに現実を合わせることになる。

 

視覚優位のこの現代において、見える世界の影響というのは半端ない。自分が何気なく見ている(見させられている)現実は、ほとんどが見ようとしているから現実となっている。自発的に見ようとしている世界は現実の中でほとんどなさそう。僕の文章も開いたら定時に更新されている客観的な世界なのか、いや、客観的に読めるような文章ではないような。読み流せるならそれはそれで凄いが。

 

 

僕の世界観は、任意性はほとんどないつもりだが恣意がある。都合良過ぎだろうこの世界という観。別に自分が何に成ったらとか何を所持したらとかに幸福は設定していない。なのに、ただ面白い。1例が画像の本なのだが、ちょっと後にする。

 

 

本日はなんとなく人間観について思索が起こった。何故しんどいとか足りないとかの反面に楽しみがないといけないのだろう。時間も基本的には足りない。次元を落として合わすというより、そうでないといけないという恣意を感じてきた。もやもやしたオーラが見えたという記事が流れてきて、他の人がヤフー知恵袋に質問したら眼科に行った方が良いと返ってきたとか。

 

個人的には主観的に何が見えても良いし、最低限の次元でさえ合えば問題ないと思う。ここの最低限は犯罪レベルだが、道徳的犯罪ではない。不倫は別に犯罪ではないし、他人の情事とか知らん。

 

ともかく、常識レベルの共通感覚って人を制限する方向にしかない。遊ぶなって言われるし、とにかくその共通感覚に従えという不自由性を強いる。かといって、逆張りの自由も何か違うような感じ。不自由があるから自由を感じられるってむしろ不自由ではないか。

 

素朴なDNAにそういう感性が備わっているというのはありうる。

肉体の檻と脳の意識はアンバランスではあるから、自然と一体化するためのアニミズム。ぬいぐるみとトーテミズムが一致しているというのは面白い「性食考」。動物を飼うのもそういう傾向ありきなのかもしれない。いや、犬も猫も大好きだが、何か自然と一体化する標にしている節があるのかもしれない。

 

こういう感じを、あんまり楽しんではいけないという抑制的傾向が見受けられて考えて居た。僕の楽しみは享楽ではないのだが、だからこそこんなことで楽しむべきではないというブレーキが起こる。楽しめない自分も自分の固有性とはならず。

 

かつて、僕に貴方が不幸になれば良いのにって言われたことを思い出す。

当時も客観的には金欠で十分不幸だったのだが、それでも不幸が足りなかったらしい。不幸な相手と寄り添うことで自分を保てる人とは今や保たれない。人生劇場において不幸にかまけている暇はなく、もっと遊ぶべし。

 

 

あと、自分が歴史上で集積してきた経験則としての好みと、ほんとうの好みは別ものなのではないかという節。経験則は過去の時間に向いては自己の存在の証拠になるが、未來に向けては何の確証も無いという世界観。

 

世界を設定する恣意はどこから来ているのだろう。おそらく言語領域ではないし、思考でも意志でもない。もっとぼやぼやした傾向とか確率分布でしかない。言語で説明できる感情は信ぴょう性がない。証拠としては提示できるにしろ。

 

そうして、画像の本。

 

森博嗣さんの最新作。個人的にもはや小説ではないのだが、この人の考え方が超然としているために小説になっている。

 

バーチャル世界が現実と同じくらいの情報量を持てた近未来SFの世界で、現実の体が行方不明な人が出てくる。バーチャルでは普通の人として存在している。

 

これって別に近未来でもなんでもなく、普通の感覚よな。

触覚レベルでは人として感知できるかもしれないが、では視覚レベル、聴覚では如何みたいなことを考えていくと、人の存在自体が、そもそもあやふなでしかない。

 

自分の存在について考えても、自我で在ることは証明不要だが、その存在が具体的な誰かにとって同じくらいの存在になるかというと、そんなことは在りえない。

 

自我であることと、他人にどういう存在とされるかは別物。

他者性は自分の中にもある。他者にするから言葉で説明しないといけなくなる。

 

 

まぁどんだけネガティブになっても他者に転嫁しないのであればそれで良い気もする。

 

凄くどうでも良い話だが、ここまで生きてきて、僕の人生劇場において自発的にこの舞台から退場した人が居ない。世界線が離れた人については感知できないしろ、訃報が流れてこない。

 

まぁこんな感じでおしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

良い○○(これ良いな)を。