むにむに

 

 

いつもよりあまり寝ていないが、元気であった1日。ただなんとなく、今まで感じなかったストレスを仕事に感じた。ただ、今までの感じとはちょっと違うような。これからどうなるのだろうな。

 

 

最後の重石がひっくり返って、浮いた体にまだ馴染んでいない。

 

すべきことをなるべく失くして(無くしてでも良い)初めてしたいことが出てきそう。我ながら何もメッセージを発してくれないから、外界の現象で感知することにしている。

 

 

ふと、人間は喪失とか欠〇(どの漢字でも自由。楽、如、陥とか)が好き過ぎるというフレーズが浮かんだのがつい2、3日前。これっておそらく「色彩を持たない多崎つくる」からだろうな。

 

失う物語好きよなぁ。失った後にリベンジするとかも。もう戻ってこないからこれからどうするか、のような。僕もだいぶ村上作品に影響されていたのだなと今となっては想う。いま個人的にはそういう過去(人とか)との乖離に喪失感はない。昨日見かけた、「人間には取り戻すものなぞなく、既に充分である」と言う説の方が馴染む。

 

人間が欠損しているという観念はどうも素朴というより、神話由来な感じがある。もっと素朴を追えば、人格(精神)が、他者から見出されるという来歴のような気もする。自分という存在を言語化するということは遺跡を描写することに似ている。

 

 

そういえば、そろそろピンクの絨毯も見納め。自然美も移ろう喪失感がセットという風潮だが、失われるから美しいなんてことはなく、ただその瞬間の像のこと。この先の移ろいも好ましい。茎や葉の部分が茂ってきて田んぼの栄養になる。自然の循環のたくましさ。その先の街並みで、何か建物が立っていたはずが更地になっているコントラストも良き。源氏物語の冒頭みたい。

 

 

言葉探しをしないといけないなと想う。

 

昨日書いてなかったが、頭の中に言葉が浮かぶときの脳の回転は、詩作とかの創作ならともかく、日常においてはむしろ低速回転だよなと。だって、自動運転できるほど馴染んでいる所作が日常言語だし。でも、ウィトゲンシュタインさんも、日常言語における決め事を解読することは難解だと言っていた。

 

僕の言葉探しは、日常言語ではない。日常言語は、タイミングと空気に当てるものだから、中の言葉とは関係ない。完全に100点満点で遣えることなぞ不可能だし、ここを求めてもしかたがない。

 

そうではなくて、なかのうごうごしているところの言語化

これだけ書いて何を言っているのだという感じだが、ここは日記という場所(媒体)が決まっているから、合わせている節がある。昨日の日記はやや漂流文ちっくになってきた感があるが。

 

僕が言葉の意味自体と人を一致させられないところは、存在そのものからすれば言葉は次元が落ちていると読めるから。世界に調律された振る舞い。きっとそういう意識はないか。世界に感得されるためには、この次元に落とさなければという無意識?

 

そんなもんじゃないのではとしてしまう節がある。むしろ言葉の方に虚飾がある感じもあったりと、言葉だけでは人は捉えられない。言葉に存在が滲むというはあるが風味みたいなもの。

 

シュールレアリスムの左川さんの詩で好きなのが、私は夜に自分になるというやつで、女性は女性性として日中は強制されていて、殻を脱げるのが夜なのだろうなという味わい。まぁそれを言ったら、男性性も大概だが、男性の方が自由度高いとは見られがち。個人的にはジェンダー的枠組みは知らん。外からの強制とそこからの自由はほんとに当人が求めていたら起こること。

 

言葉を何と一番近く捉えるかという話。人間に読覚という感覚はないから、何かを流用しないといけない。これはきっと人それぞれ。ふつーは視覚優位の存在感なのだろうな。視覚のメリットは非接触だから、安全であって他人事としての客観とできること。動画産業が盛り上がっているのもコメントが視覚的なメディアであることありき。

 

視覚=客観も嘘っぱちなのは何十年も前の人達が解明していることなのだが、この世界観の人はとても多い。でも、視覚的な感覚のもう1つのメリットは、共有できやすいというところ。画像でその人の世界と近くなった気分になれる。

 

もっと主観的な世界観が、かつて猛威を振るった触覚的感覚。触れるのが世界という観念。ここからすると、言葉に手触りはあるのだろうか。まぁ、ふつーの現代は触覚と視覚で別物にしている感じだろうな。触るが主観、見るが客観。個人的には疑義があるけれど。

 

僕は味覚的に世界を捉えている。味覚は主観と客観のブレンドがちょうど良いし、そもそも世界は食べるもんだし。食べることは消費とされているが、変容するのが本質。物理学的に言えば人は低エントロピー(食物)を摂取して運動している訳で。

 

言葉を綴ることは歩くことととても近そう。早く歩けることは遅く歩けるとセット。高次元でうごうごしていることを言葉化することもそういうこと。

 

日記の原型を留めなくなりそうだが、読みたい人は読んでくれればそれで良き。

 

 

美味しかったら良いな。

 

 

はい、おやすみなさい。

 

良い○○(任意で埋めて)を。