安心の不思議

 

 

 

昨日猫氏と憩った空中庭園、また居るかもという下心で行ったら人で充満していた。からっと晴天で、おまけに気温は高すぎず湿度も低い。昨日の曇り空で気温は高くじとっと湿度が高い時の閑散度と全然違う。

 

厳密には、人が多いのではなくて快適な空間はその場に留まる個々の人の滞在時間が長くなって滞っているということなのだろうな。他の場所に行くのが早くなる、空間を単位にした人の量は減る。

 

ぽかぽかした公園で座って憩いたいのは習性なのか傾向なのか。僕は人が回ってくるところであれば、なるべく早く空けねばと思ってしまう。これこそ社会人ではないのか。自分の憩い時間の方が大事なのは社会人ではなく個人主義な感じ。人が多いところが気になってしまう人はこういうところに敏感なのかもしれないとなると、どちらが社会に適合しているのかというのは微妙なところ。

 

喫煙スペースには美化なんちゃらの人は居なかった。リーマンの雑談で、何故か東日本大震災の当時の状況が流れてきた。今読んでいる「性食考」は実は震災によって自然に戻った街からの話だったり。

 

この辺りで考えていたのは、人を傾向で考えることについての不手際というか、漏れていることについて。晴れたときは公園に行く傾向で人を一般化したところで人のことを何も示していないよなと。もちろん、定量的に人を扱うビジネスであれば傾向とか統計的な把握は必須ではある。この時期はこのアイスが売れているとか、夏にホットの缶コーヒーはあんまり売れないから自販機の設定を切り替えるとか。

 

ビジネス上の傾向の把握は個人を捨象した集団的な人を捉えて居る訳であって、この文脈であればそういう風に捉えるのが正ではある。ただ、この集団的に捉える手法をなんちゃってで個人的にも流用してないかという話。

 

経験則は本来自己にのみ適用されるデータ。全般的に適用するためにはデータが偏っているし、量も全然足りていない。個人の経験で把握された世界は偏見と呼ばれるものになる。割と自戒的でもあって、特に誰かの世界が狭いとかでもない。誰かの世界が狭いと把握してしまうこと自体が、自分の世界の狭さを露呈している。

 

 

これはこうだという1つの経験から類推して世界を眺めることができるのは人間の能力の1つであって誇って良い。ただ、問題は相手の世界も自分の世界と同じであると括ってしまいがち。こうなるとややこしくなってくる。

 

アナロジー定量的に把握した人間観は、常に例外とセット。これに当たる人が多いかどうかは具体的な人を相手にしたときには何の根拠にもならない。僕もこの世界観に倣おうとしていた時期があったが、ほんと何も見えない。むしろ自分も定量的にしか見えなくて霧がかかっている。

 

でも、人は安全より安心を求めるし、何か嫌な感じがする他者にフィルターがかかればそれで良いのかもしれない。安全を求めるのであればおそらく法律とか政治について精査せずには居られないし、インフラだって気になってくるが、社会はとりあえず安全に回っているということには安心できるような習性がある。

 

専門用語で言うと「信頼の原則」という。分かり易いのが交通ルールで、相手も標識と一般的交通ルールに従っているとして自分も動いている限り、そこに落ち度はないという感じ。

 

絶対な安全は存在しないから、安心に依るしかないのがこの社会。

 

 

ちょっと煮詰まってきたので、いったん休憩。

 

個人的な試行として、インプットの比重を減らすことにした。無知の塔は法律学を除いて1列に。どれもこれも歯ごたえ満載で良い。アウトプットをもっとするようにしたいのだが、そもそもアウトプットってなんだろう。

 

表現物をせっせと作って誰でも見られるようにするのがアウトプットなのか。たしかに受け取った世界に対して動くのがアウトプットではありそう。では、どちらの方向でもプットしなくなった人は、人間ではないのだろうか。んなことはない。

 

ただ、人間の存在を哲学すると、自己とはあくまで関係の中でしか存在しないものである。そうしたとき、自分と関係してアウトプットがない存在、自分にアウトプットが起こらない存在と安心した関係に何の意味があるのか。こういうのが生活の定義だとすれば、僕はそんな人とは生活できない気がする。

 

合流して。

 

言葉に対する安心感というのも壮大な経験則(共通感覚)の権化。言葉に扱われている人は、自分の言葉が他人にも自分が遣っているように伝わるという安心感があるから、話が通じないと言える。スマホみたいな感じ? 使える人の中でスタンプを押しまくって通じるという世界観。なんとか草とか。

 

好きとか幸せとかもややこしい。外からそういう風に見られるようにという世界観。

ほんとにそうで在る人は、こういう言葉を遣わなくても良いのに一般的感覚になってしまう。

 

まぁ、僕は言葉にはふつーにリスペクトがあるので、蔑ろにはできない。

疎通ツールとしてどうかというと、アナロジーでしかないよなとは思うが、少なくともとっかかりにはなる。証拠にはならない。

 

無知の塔のバリエーションがこういうことを情報提供してくれて、なんとも面白くて。

 

五感で感得される世界は全然客観的な現実ではないということを多分野が語ってくれる贅沢。特に面白いのが、自己の存在を肉感的にどう扱うかという話。触るか触れるかの微妙な間だと、自己が剥き出しになってしまうため、集団に自己を埋没されることで世界と繋がっている安心を見出す。

 

まさにライブとかそうだよな。1回だけ行ったことがある。

 

だれとも繋がっていないただの自分であることってそんなに大変なことなのだろうか。

 

僕は刷新を存在としているが、刷新がある為には過去の自分がある訳で、前の存在をないがしろにはできない。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い○○を。