そわそわ

 

 

こうやって僕が書いている時間に車を運転している人も居るし、働いている日も居る。ごろごろしたり睡眠中だったり、もしかしたら、僕の文章を読み返している変人も居るかもしれない。ビュー数の増加の要因を考察すると、その数の人がやってきたというより、もっと少ない人がいっぱい読んでいる方がしっくりくる。

 

こういった、自分の時間だけで世界を捉えなくて良いというのは、通信技術の発達の賜物なのだろうな。現実的にリアルタイムで別の時間を観測できる。もちろん観測と実感は別物で、昔の人は想像で捉えていて、こちらの方が実感に近かったかもしれない。

 

雨という言葉。語源となったカタチをお勉強した訳ではないが、これって、天気が自分の世界だけではなく移り変わるという想像がイメージされているのではと想像している。点々はもちろん雨粒。上の横棒は雲で、縦線は雲の下の空間。真ん中は土地の境界か。そうして、その外側には雨は降っていないという文字の外の空間。好きなカタチ。

 

自分に降る雨も他のところでは降っていない。情報として知っていることと実感として想像できることの距離は随分と遠い。

 

 

さておき。

 

お喋りが過ぎたりなんだりしているが、次の試行として、「素直に生きる」というのがある。これは、「外から自分がどう見えるか」という観測網を余計に気にしないということで、素直に自分を捉えることも含む。

 

これで捉えたとき、ふと、僕は外の人より随分優しいのではないかという観測に至る。これは情が厚いとか、気遣いのクッション言葉を連発するとかではない。この性質で近いのは、先生とあだ名を付けている上司。相手の事情を想像する余裕。正解かどうかはともかく、可能性として。まぁ先生は仕事は人情より合理派だから、そこはジレンマなのだろうな。

 

だから、新人さんの「相手の解決より自分の理解(納得)」みたいな性質に当たりが強い。一生懸命誘導しているのは見受けられるのだが、きっと聞いてないのだろうなと観測している。人から影響を受けられない人は余裕がない人。

 

僕の優しいは自分の事情をほとんど放棄するくらいのものでとてもバランスが悪い。「優しい」と評されるとややこしいことになるという経験則も制限だし。大事な人だけに優しいというのは装いだと思っているし、配慮的なものは普通全世界的にあるもの。バランスを取るために、恣意的に優しさを配分する必要がある。なにせ体は1つしかないから、自分に対しても優しさを配分すべき。

 

これはただの僕の方法論なので、あまり読めるものではないのは知っている。

片面的なポジティブって何か歪だと思うだけ。自然の摂理的に。

 

という感じで、僕は優しいと評されるかどうかとは別に優しい人物ですわ、で良い。

何か返ってくるからその人に好意がある訳でもないし。観に行けるかどうかは分からないけども。

 

見ず知らずの人を個人として認知することも優しさの範疇なのか。

 

こんなことまでいちいち解放していかないといけない。

 

やれやれ。

 

本日のお風呂読書で2冊読み終わった。「シュールレアリスムとは何か」と、「香君」下巻。

いやはや、どちらも美味しかった。ご馳走様です。

 

シュールレアリスムの巌谷さん、よく喋る喋る。お話したら楽しそう。笑

ユートピア」論の、人間が機能であるという話は、これはシュールレアリスムではないということだと読んだ。超現実って現実から離れることではないし、地続きでなおかつ個人の見えるがままの世界を捉えることのはず。

 

ただ、この「機能的人間観」のユートピアって現代日本に相当浸透している。自己紹介をするときに、事務情報を羅列することとか、就活でも自分に何ができるかを紹介しないといけいない。後者はそれで良い。だって法人は機能的個人の集合体だし。でも、機能を持ってないとアイデンティティを保てないという自己観はそうとうにユートピアに浸っている。

 

年齢の若さを機能的に捉えていたり、

それよりも余白を保ち続けられるかの方がきっと大事。

 

 

これと「香君」も繋がっていて、我ながら良き食べ合わせを選んでいる。

個人的にほっこりしたのは、巻末に参考文献がびっしりだったところ。さすが学者さんという感じ。一種の論文的物語。

 

ファンタジーを突き詰めると神話になるのかな。

農作物を食い荒らす厄災みたいなバッタは聖書のイナゴ風。

 

あと、思わずいやいやいやと思ってしまったのだが、啓示を述べる神様みたいな立場で、自分が持っている情報を国民に渡して、国民自身で判断できるようにしたいという下り。たしかにこれが個人の理想形だと思うが、枠外を決める判断は自責になる訳で、そういう意味でほんとうに自分の動向を決めるってかなり難しい。

 

通常の判断って、一定の枠内でどれにするかだが、決めたことに責任が生じることを決められるのか。情報量が多いか少ないかの問題ではない。

 

機能であるか人であるか。

正しいって言われたからやったのに駄目だったから怒りが生じるみたいな精神性ではできない。

 

なんだっけ。

そわそわしているから抜けてきた。

 

 

あぁ、そうそう、憲法の本でもこういうことが書かれていて、自分で自分を決めて良い時代になってきたのかなぁという感じ。

 

そういう感じで、自分が自分であることに重みを置く人は良いのだが、それでもって他人を蔑ろにできる人はアウト。自分を人とみなすなら他人も人であるのが当たり前。嫌いだから遠ざけようとするとか。

 

素直な自分。

 

傾向がやっと分かってきた。

僕は、世の中の当たり前の出自がずっと気になっている。人は基本的に自明を前提としているけど、その自明ってどこからきているのだろうって。

 

ここを探るには古典的哲学が詳しい。時代的に退行した方が解明できるって、人はタイムスリップできる存在である。自我とか個人とかももともと人類に在った概念ではないし。

 

経済観とかも、それに価値があると浸透した自明であって、あんまり分かってない。

行動経済学の概念を読めるためには微積分の自明を要する。

 

なんでも良いけど、相手の時間を尊重できないパートナー関係は無い方がいい。

相手の時間が自分にとって自明でないと観測できるのは、別に優しさでもない。

 

お迎えに行こう。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。