自家発電
ぬるぬると時間が過ぎる。知らぬ間に仕事が終わるがその間に何をしていたかは分かっている。この感じ方は久しく忘れていたが、アレだ。世界に興味津々に生きていて、時計時間がいつの間にかワープしている幼少期の辺り。
もちろん、良いオトナなので時計時間のことも分かっているし、場を乱すこともない。ただ、にやける。本日の仕事時間では、空いた時間に数字しか並んでいない電話番号にハイフンを付けるというタスクを勝手に考えて、うまくいってにやける。
まず、10桁と11桁がランダムに並んでいるのをLEN関数で桁数を出して桁順並び替え。桁数によってハイフンが付く場所が違うから、同じ桁数だけが出るようにする。その後、TEXT関数を使ってハイフンを付けてオートフィル。もっと手順を省略できるかもしれない。勝手な検討課題。
あと、お手洗いで「手をかざすと水が流れます」という日本語の下には英語があって、上には点字がある。見えていたのにスルーしていたのだが、点字ってどういう風に文字に変換されているのだろうなということが気になった。気になるようになったというところが楽しい。
僕はこう見えて(?)、省エネ主義。出勤の時に、なんでExcelの関数に面白みがあるのかというと、上手くやれば手打ちの作業コストが省エネできるし、仕事も速く正確になるからだよなと。ただ、自分が動くという意味で徒歩を自転車にしたり、料理を総菜にする省エネはしない。それに作業コストはカットしても思考コストはカットしない方が良いよなという感じがある。Excelの関数をどう組み合わせたら上手くいくかを考えるのはきっと思考コストの範疇。
作業コスト、思考コスト、運動コストという3つの概念が出てきたので、ちょっと整理してみる。
作業コストは誰がやっても変わらない機械的なもの。やったところで手さばきは向上するだろうが、それだけしかない。判断も要らないし、ただ歯車のように動けば良い。ここについては、機会の方が強いし早いし正確だから、コストをかける必要がない。
行動経済学で、人は思考コストを避けるという話があった。思考とはエネルギーが消費される、作業と近似の概念になっていると思われる。たしかに僕も思考コストという消費を自覚して生きていた頃があったが、今はここに消費を感じない。袋小路で自分だけでは進めないことに悩むことは思考ではなくて、苦悩という似て非なる概念だという解釈。あと、正しい情報があれば正しい判断が可能だというところで情報不足を補おうとするのは推定になるのではという感じ。正しい蛇口を捻れば正しい答えが出てくるから、作業とも近い。
僕の中では思考は運動と近いから、運動コストも省略できない。移動の時短は目的地があるから良い。新幹線を選ぶのか、車なのか、バスなのか。移動コストも省エネ不可。時短なり節約しても動いているのは変わらない。
運動は生活領域の自分の動きであって、生活外への動きの起点になるのに、ここを省エネしも良いことがない。カロリーが消費されなくなって、時間外でジムとかジョギングとかをするようになるって、本末転倒な感じ。致し方ない生活をしている人も居るだろうから、別に否定するつもりもないし、他人の生活時間のことは分からないから、僕がしていることをやれば良いみたいな価値観も皆無。
僕と全く同じ環境にある人が居たとしても僕の生活と同じことをするのは無理だと思うし。
この無理は人と人は違うし、それぞれ人生劇場があるからというだけ。
おそらく細分化しようと想えばいくらでもコストは名付けられて発生してくるけど、だいたいが作業コストに集約されているのではという想像。生きることすら作業になっているのかもしれない。
どこに費用をかけるかは誰かに設定されるものではなく、自分で選ぶもの。
本日の運動コスト。
結構早くしようとしているのだが、帰ってから3時間ぽっきりで生活パートと読書と文章を収めるのはまだできるようになっていない。徐々に滑らかにはなっているはずだが、成果には程遠い。遅番の二度寝前に洗濯するとかはできてきた。
本日のメインはやたらとアピールしてきたチューブ柚子胡椒を使って、とろみ付きの鶏ひき肉と玉ねぎともやしの炒め物。ぴりうま。
やれやれ。
どうでも良いというか、大丈夫かというところ。
ここのところの文章、かなり遊び全開になっているから、読み物としてきちんと成り立っているのかというのがふと気になった。読んで言葉として意味が読めないということには至っていないと楽観しつつ、概念としてはどうなのだろうとか。
まぁ読めない人は読まないだろうし、読みたい人が読んでいる、もしくは辿り着いた人が眺めているくらいか。それで充分。
ともあれ。
こんなんでも、別にストイックでもなんでもない。なにせ目的地がないし。行き帰りの歩行速度は競歩みたいな感じになっているわ。文章も一時間程度で収めているわ、時計時間に割とシビアになっているわだが、これって、この人生劇場を遊び尽くすための試行であって、特にご褒美もないのにやっている。
この生は修行のために生まれ落ちたのだという宗教チックな感も分からなくはない。生きていること自体が辛い人がそこに救いを求めても良い。今やその役割は精神科のクリニックがやっているのかもしれないけども。日本はナチュラルに世界を信仰しているから確立した宗教体系が馴染まない。原罪とか。
僕は楽しむために生まれ落ちてしまったらしい。
この自己の存在の変さを自覚しろという人生なのかという観。
これも良いとして。
また小説枠を追加した。
今の文豪ラインナップに割り込んで来れる現代小説はあれやこれやしかないなぁって想っていたら、「精霊の守り人」の続きの世界が更新されていて、なんとも都合の良い世界線。
最後。
僕は割と現実世界で薄―く生きてきたつもり。特に誰かにインパクトを残していないという自覚。ただ、この変さを感得してしまった人にとっては一生残ってしまう存在なのかもしれないという節、いや説。
で、人の中に残ったことについて、特に存在の自信になることもないという。
存在感は自給自足できているから、他人からの承認によって暖を取ることも無い。
はいおしまい。
いっぱい遊んだ感。
おやすみなさい。
良い夢を。