システム

 

 

ストレンジカメレオンを聞いている。モバゲー時代に歌詞をプロフィールに書いている人が居た。「できそこないカメレオン」の辺り。良いフレーズだと言った。その頃はまだ両義的な自分の存在を価値観がふらふらしているとしていた時期。そうすると、「歌詞です、自分ではこんなフレーズ考えられない」と答えられた。元気にしているといいな。

 

さて。

 

お盆連休後の初めての普通の平日5連勤。人ってこんなに働くものではない。晴耕雨読くらいで良いし、時給感覚も古いような。いや、僕がそういう層に至っていないというだけではある。仕事場の先生と、絵の先生(お友達)が同じことを言っていてわらける。「風邪で休める社会」って良いよねって。たしかに、自分の生活に支障がない程度に休めば良いし、変な話、ある意味気軽に休めるようになったのはこのご時世の功の部分なのかもしれない。

 

欠員について労働者が罪悪感を抱く必要はなく、むしろ人員を確保できていない企業のシステム上の準備不足とも言える。現実的には難しいとしても労働者個人の悪評になるのは、なんか変な感じ。それで割を喰うということになっても、雇用主に対するクレーム案件になるだけのような。まぁ感情としては分からんでもない。人同士の相性もあるし。

 

むかーし工場の軽作業のとりまとめみたいなことをしていたことを思い出したが、全然面白くないから省略。誰かが休んだら自分がしんどいから嫌だという人は多い。仕事ってそういう風になされるものではないよなぁって。いや、片足くらいしか企業システムに突っ込んでいないからよく分かってないが、「学習する組織」で経営論も呼んでいる歪さ。

 

 

やれやれ。

 

本日は弁当おかず作成工程がないから、お魚を食べる。刺身がなかったため寿司にした。ついでに明日の朝ごはん用にどん兵衛(肉うどん)も買う。ちょっと早く目が覚めて朝ごはん代わりに読んだ記事の中で、やたらと美味しそうにどん兵衛を食べている描写があって、サブリミナル効果というか、あぁ最近食べていなかったなと。カップ麺も袋麺も好き。あまり続けて食べられない(胃腸が弱い)だけで。

 

ここでふと思ったのが、僕はほとんど受動的な情報をカットして静かに過ごしていて、こういうふとした影響を体感できるが、テレビを流しているような生活をしていると、CMで購買意欲がやかましくて、自分で選択したという意志しか頼り所がないのかもしれないなと。

 

影響が多すぎて選択した結果しか可視化できないから、それを意志が選択したとみなしたいという想像。別に喧噪によって自分が紛れるという生き方も悪くないと想う。僕は情報量の洪水にパンクして、自分という余白が見えないように生きるのは無理だったから辞めた(らしい)。地デジに変わる頃から見ていない。居酒屋とかどこかのテレビ映像はとても新鮮で能動的に眺める。

 

 

目はマスクでは隠れないから、あんまりキラキラさせているのもどうかと思うが。

恋人さんが、歩き方がその辺の幼児と同じ感じという評価をしていた。そんな訳あるかーと言ったけれど、速度を緩めた歩きは情報量が半端ないから、そういうことになっているのかもしれない。

 

 

自分の行動が純粋に意志であるという証明は不可能だし、傾向には環境要因もあるし、結果というか、現実とか事実みたいなことから自分が逆算的に確立されることはないように想う。自分というはなんでもないところにしか居ないような感じというか感触的なものでしかないという説。

 

そういえば、職場のトイレでふと想ったのだが、僕って外から見れば良い歳して企業にきちんとした立場で属していないし、資格試験で成功しようとしているだけで、何事も成しているように見えないよなぁって。そうして、ここに対して内部では何の罪悪感もない。そんなこと求めていないということが分かるためにはここまで経年を要したということなのか。

 

「知性について」で、社会に対して没交渉になっても楽しいのが天才だという論調があったが、僕はそこまで自己の独立性は感じない。名誉も特に求めてないしなぁって。天才性の条件として、おそらく世界に認められるという衝動が必要なのだと思う。

 

何もなくても人はそもそも独立していないかという感じ。

 

どん兵衛の記事は、綺麗な感じの人が書いている。内省具合が面白いのだが、僕は綺麗なだけでスキは押さない。キラキラしている文章だったのだが印象として、キラキラしないといけないという義務感がある。

 

まぁ、個人的にこの時間を留めたいという発想自体があまりよろしくないという感じがあるからちょっと素朴ではない味わいがあるというだけ。ほんとは留まらないけど、人は瞬間の幸福を求めるというフィクション性だったら、そういう外用の文章は美味しくないなぁって。もちろん、可愛いアイコンの人が考えている文章を書く需要のためだったらやったら良い。

 

それで充足になるかはともかく。

 

なんか変な読書感になったが、ともあれ。

 

 

僕としてはキラキラした、あるいは感動的な時空って、その瞬間だけに限定されるものではなく、生活とか存在にフィードバックできるインパクトがある。そこだけに留まるのが「思い出」とか「娯楽」であって、越境できないという感覚も分からなくはないが、自分はそれを通して認識している訳で、区画は自覚的な区分けでしかないような。

 

最終講義で満を持して出てきた河合隼雄さん。名前だけは見たことがあった。

「精神療法は、人の物語を見つけやすくするだけ」みたいなのは分かりみ。

 

普通の関係において、人は他人の存在的物語の完全な読者になれない。

だから専門職があるのかという感じだが、僕は関係でこれをやっていたらしい。

 

なんか人のナカが気になるから、ちょろちょろ促しつつ、相手のほんとの言葉を読む。

ほとんど越境の領域だし、だいたい反発される。貴方が悪いんだって。

 

いや、僕が悪いのはたしか。笑

自分の存在の前提にそぐわないのは須らく悪い。

 

 

僕が問題としている人生劇場は、意志よりも縁。

そろそろ、宵顔さんとも縁が途切れるだろうなと思っていて、来月の演劇で最後の挨拶の文言をどうしようかと考えている。

 

いつかまた逢えたら良いですね。

かな。

 

僕をいつかにしない人を大事にするという正常な感覚。

 

 

髪がもしゃもしゃしているから刈りたい気分。

 

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。