決め打ち

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何も与えてないのに僕の存在に嬉しそうにしてくれることが、嬉しい。どちらが先なのか定かではないが、いずれにしろこの応酬は減らないから、交換ではない。

 

さておき。

 

昨日美学の記事を検索しているとき、ちらっと自分の他の文章も眺めた。日記としての時の流れは記述されているにしろ、たしかに誰かが評してくれた、同じことばかり書いている気もする。

 

あえて一言にするなら、自分になる過程みたいな。

 

 

「異文化に興味を持つ」というタイトルの記事で、体を動かさなくてもどこにでも行けるという話があり、スキをぽちっとした。異文化のことを知ることで自分が理解される。

 

高次元の話っぽい。スピリチュアルのジャンルに含まれるのだと思う。

面白いのだが、なんだか、もっと素朴に落とし込んだ方が賛同者は増えるのではとか。個人的にはだいたい賛同できる。

 

移動の概念の話。体の移動は3次元ないし4次元(ほんとはもっとありそう)だが、精神世界の移動はとくにここには無関係。体が移動すること(物理的な座標、時間的な経過)しないと自分が変化しないという観念は、あくまで肉体とか社会に追従した思い込みでしかない。

 

僕は体の移動、本を読むこと、人と関わることを、全部変化の軸として捉えている。精神の空間の座標は物理世界をベースにしているにしろ、全く同じではない。そもそも精神は物理空間の動きと完全に同期できない。だから容易く動かない。屁理屈で言えば地球は自転して動いているから物理的な座標も常に移動している。

 

動いていることが意識されないから動いてないという思い込み。

 

感動で感じが動くという語用も在るし、自分が不動であるという観念は物理的な歴史では消え去った天動説の思想な感じ。動かないのではなく、動きたくない。

 

ところで、この人の記事に見たことがある名前が出てきた。

ナオミ・A・アシュタールさん。たしかアシュタールさんが高次のガイド的な存在だったかな。「身体を持ったまま高次元に移動する」(おぼろげ)をkindle読み放題でこの前読んだ。1年前くらいか?

 

思考が世界を創っているという、ありがちな一般的にはそんな訳ないやろと突っぱねられそうな考え方。当然これもそうだなと思っている。もちろん、超常的な経験は一切ないし、ガイドも居ない。天使みたいな人()なら居るが。

 

いや、龍が棲んでいそうな池には行ったことあるな。画像貼っておこう。

 

僕がこの思考の現実化みたいな世界観を信じるようになったのは、高次の体験があった訳ではなく、本を読んだり何かしてみたりしているうちにそういうことなのだろうなと気付いただけ。

 

もっと素朴に説明されても良い話だし、なんなら最新の科学知見とも近い。量子力学とか現象学とか、古典にも近いのかも。美学の適意とかも繋がっている。宗教観にあった神の概念もそうなのか。

 

僕は思考が世界を創造しているとまでは考えていないのだが、少なくとも決めているとは言えると思う。事実は1つというミステリと言う勿れのもじゃもじゃ君も起こった事象がどうあるのかを捉える思考が働いている。単純なところだと、コップに半分水が入っている対象を見て、どう捉えるかによって世界観は随分変わってくる。

 

人生というコップに30年分の水が入ったことに対してとなるともっと分かり易い。

 

最近の個人的な所感として、何か行動をする「前」に行動する理由を設定しようとするのは悪手でしかない。人は物理的にすることよりしないことの方が多いから消極的な理由の方が浮かぶ訳で、積極的な理由を探している間に時間が過ぎてしまう。

 

理由があるかどうかよりも、衝動しているかどうか。

 

で、もっと深刻な思考の現実化として、自分の思考ではない世界の思考の学習は主観的に思考できないのに強固に世界観を設定する。主観的に自分であるべきであるとか、こうするのが当たり前という無難な選択とか。

 

思考できないのに世界になっている建築物。

世界を意識しなくて良いという意味では統計的にメリットはありそうだが、そもそも自分のアイデンティティが主観的な自己観というはどうも。

 

インド哲学なのか宗教なのか分からないが、自分が宇宙の一部であることを瞑想して把握するらしい。僕は別に修行してない。ただ、これ、当たり前じゃないか。一部で在ることと自分で在ることは普通に両立する。ここででの在るは主観的な自己観ではなく、行動の中にある。

 

僕はずっと、人が当たり前に世界を都合良く区切っていることに対して疑問を持っていた。なんで世界全体の飢餓より、身内のちょっとしたアクシデントとかニュースの悲惨さの方が重いのだろうって。別に良いのだが、これで世界は客観的であるってなんだかおかしい。

 

世界全体を救うことはできないから狭い世界をとしてみたところで、別に救ってはないよな。可哀そうだなの範囲が違うだけ。

 

思考の現実化が馴染まないのは、自己観、世界観が思考によって創られたものでしかないということに気付けないから。もともと在るものなんてなくて、受動的に創られたものを自分の宇宙としている。ビックバン説。

 

 

アウレリウスさんの自省録の時代って、宇宙観どうなっているのだろう。宇宙という単語がやたらと出てくる。この人の書く神とか自然とかも同義で、自分の把握できない外のメカニズムみたいなことなのかも。

 

「名誉を重んじる人は自分が他人の中にあると思い、享楽を重んじる人は自分が自分の感情の中にあると思うが、弁えた人は行動の中にあるとする」

 

いいフレーズ。世が世なら仲良くなれそう。

 

思考の現実化にいう思考って、おそらく意識の可視化であって、物事を考えるのではなく自分を考えること。

 

分かり易く、自分がしたいことを意識したらそうなるみたいにざっくりしているが、アウレリウスさん風にいうと、自分の自然が何であるかを外からではなく内から見つけること。創られたように生きるというと運命論的だが、自分の自然にすら辿りつけず一生を終える人は多そう。

 

問題はその先。

 

僕の自然は、よく分からん。

 

ただ、好き嫌い関係なく世界を観測しているから、観測していることが好意であるとはならない。好きな人はむしろ直に見られない。

 

それを越えた適意(嬉しさ)。

 

要は、世界は決まっている客観的なものではなく、主観的に決めているものでできあがっているというだけ。

 

能動。

 

あと、記憶力にまつわる固定観念もたぶん違う。

1つ1つの情報を物体として暗記できることに意味はない。そんなのコンピュータとかウィキさんには絶対勝てない。

 

そんなことより、情報と自分の体を扱うこと。

 

もの覚えが悪いって、受動的に捉えているというか、できなくなくて良いと思っているだけなのではという説。

 

今日のお客さんで、30分ほど付き合って、何パターンも教授したのが、1つも消化してくれなかった。体の動きだしワーキングメモリの範疇だと思うのだが、自分でしようとできないってなかなかの人格。

 

これがワカラナイからできないのではなく、そもそも分かるものとしてないらしい。

そういう世界観も良い(仕事時間だし、腰低かったし)。

 

まぁ、自分に何が分かっていないのかを分かるってかなりのエネルギーを使う。

何かを知るって自分が何を知らないかを把握するのと同じだし。

 

分かったことにして世界の外に置いてしまうことの方が楽で省エネではある。

僕の自然はこれを赦していないらしい。無為なエネルギー消費でなければ人はいくらでも動ける。

 

他人に苦言を呈するとか怒る暇がねぇ。

 

はい、おやすみなさい。

 

善い夢を。