不具合

 

 

今の心情を描写するのであれば、これは悔しさという言葉が当たる。運試しで負けるのはどうしようもないことで、どうしようもないことは許容するしかないが、本日のはどうしようもあった。過去に向けた後悔になると自分に対する呪詛になりかねない。未来に向けて小躍りしながらご飯の準備をした。なるほど、踊りとは負を振り払うためのものなのか。

 

メインはリクエストがあった、豚しゃぶ肉を茹でてみょうがと大葉をふんだんに入れためんつゆに浸すというメニュー。めんつゆは常備していないから、白出汁とほんだしと醤油と砂糖で代用したが、きっとオリジナルよりあっさりかつ厚みがある味になっているはず。イメージとしては冷やしうどんのつゆに豚しゃぶ肉が浸かっているという感じ。肉も上手く柔らかく茹でられた。素晴らしい。もともと香味野菜も好き。

 

さておき。

 

悔しさの話に進む前に漫画の話。

読み返すものがないなーと思っていたが、新世紀エヴァンゲリオンを読み返せば良かったと気付く。本日の空き時間で7巻まで読み返した。とはいえ、エヴァのリアルタイムの人ではなく、からくりサーカスと比較すれば熱量が下がる。

 

僕の入り口はアニメでもなく、ゲームだった。スーパーロボット大戦αだったか、エヴァのストーリーが軸になっていて、初号機がやたらと強かったという記憶。ATフィールドの鉄壁とマゴロクソードだったか。そこからアニメやら映画を見た。映画も破までしか見ていない。漫画は面白いのだが、凄く淡々と進む。トウジもあっさり退場するし、誰しも舞台に居るのかどうかよく分からない。原作って最後どうなるのだっけまでは読み切る。

 

そういえば、電子版体で買った漫画って形になる物なのだろうか。

もともと物体がある物を媒体違いで取得しているという意味ではそうなのか。

 

 

やれやれ。

 

悔しさの話。

仕事上のバイアスのせいで、歯車がかみ合わなかった。もちろんバイアスという共通領域が構築されることは仕事に馴れたということなのだが、それが当たり前となって具体的な仕事が上手く処理できないのは本末転倒。この噛み合わなさが後を引いてその後の仕事もちょっと変なことになった。

 

ある程度の認識がないとその先がないのは当たり前だが、その認識が前提を越えて真理となるとよろしくない。疑うべき既知なら良い。怠って変なことになる。

 

あぁ、別に人のバイアスはあんまり気にならない。

僕の問題ではないという言うと不親切な感じだが、そもそもバイアスを排除することが万人に取って良いこととは限らないし、自分も含めて世界縷々考えたい変人でなければ、自分のバイアスなんて別に見る必要がない。他人のバイアスを攻撃しないくらいで良い。

 

振り返って本日を顧みると、なんとなく示唆はあった気がする。

公園でエヴァを読みながら一服していると、急に音がやってきてなんぞやと見ると、公園の池を循環させているこじんまりした滝からの音で、この滝ってこんなに音を出していたっけという違和感。おそらく定期的に水を循環させている音でもともと在ったはずだが、僕の世界には無かった。

 

視覚上の違和はある程度すぐ分かる。公園の入り口に昨日にはなかったポストができているとか。視覚は注視すると見えないが、音は注意しないと聞こえない。聴覚世界は苦手っぽい。

 

本日の失敗は、注意が演算に向いていてキーワードを聞き逃してしまったというところ。聴覚って一過性だから、捉えずに移ろった後にはもう聞こえない。さっきも言ったけどと言われて、音声情報聞き返したら、最初でも最後でもなく、さりげなく中間に1言あった。最終確認したときもそうですって言っていたのだが、そこでこれも含めてと言い返してくれれば良かった。難しい。

 

というところで、僕は聴覚情報における地頭は良くない。人の言葉だったら脳内で文字としてメモを取るのだが、これも注意が抜けていたら文字に起こせない。自分が言ったことが人の耳に入っているという世界観は注意し合わないと共通認識にならないのだが、それほど注意を持続できる人もそうそう居ないような。その瞬間のやり取りが恙なければ良いという言葉を投げ合ってグルーミングする、これも良い。

 

聴覚情報に入ってくる雑音もいつかコントロールできるようになるだろうか。

音と匂いは意識ではなんともできない器官のような気もする。物理的な世界認識の最前線で最低限。

 

視覚だけがちょっと離れられる。

ただ、これも離れているのかどうかという微妙な感じ。焦点は全存在的に見えている訳でもなく、無いものも見たくないものも見えない。

 

もちろん、僕は全知になりたい訳ではない。そんなの人が創造しうる神様でも無理。

可能な自分はどこまでなのかというところが気になるだけ。社会的な成功みたいな話でもない。むしろ哲学的な意味合い。

 

万物が流転するという説に対して、流転するのであれば、その万物自体を認識するのが不可能ではないかというやり取りが熱い。そもそも認識するためには概念はある瞬間で留まっていないといけない。人間は宇宙のスケールで言えば一瞬しか生きられないけど、その間には固有として存在できる。

 

全然可読できてないのだが、ヴィトゲンシュタインさんが言語における意味と可能性を同列に語っているというところを読んで、これってほんとに同じなのかと考える。言葉の意味は言葉が示すところのものであって、たしかにそのものは、捉えられ方の可能性の話になりそう。要は、指示したように捉えられない可能性があるのが言葉。

 

こんなことを考えていたら、そりゃあ日常生活に不具合を来すに違いない。

僕はいまのところそういう傾向はないが、友達は居なくなった。日常を温める為に接するだけだったら要らないし、どの時系列でもあんまり1人きりにはならないし。

 

別になんの自慢でもなく、単に僕がちゃんと相手を可能性的な存在として見たことに一致する人が居るということ。パートナーさんは途方もなく僕の存在を承認してくれている。

 

僕はいまのところ自分の存在に折れる気がないらしい。

心なしか足の筋肉も付いてきているみたいだから、もっと歩くつもりもあるらしい。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。