罪悪感の証明

 

 

誰も待っていないとは思いますが、お待たせしました。特に何があったということはなく、単に遊び惚けて2日空いただけです。心身とも好調、ちと寝不足。

 

基本的にどんな日でも濃淡を作らず濃いめで過ごしているのだが、なかなかの濃度。

 

まず、金曜の仕事終わりではパートナーさんと、その友人と3人で会食。変な人というか、まだきちんと生活圏外にも世界がある人という感じ。僕が友人関係を切ってしまったのは、なんというか、他の世界に対する許容とか想像が閉じている感じがしたからだったなぁと。まぁその生活圏内で居ればきっと特に違和はないのだが、生活圏が離れてしまうと袂が分かたれているのに、無理矢理昔の待ち合わせ場所で合流しているような。

 

教育哲学とか、宮沢賢治で目が輝くという奇特な感じ。

今時の義務教育って何をやっているのだろうって気になっていたから、現場でなおかつフラットな見解のサンプルが1つでも取れて良かった。色んな性質の人が居るという世界認識の種を蒔く教育という仕事は、生産性がある。まぁ普通に考えて、分類は老若男女に留まらないし。

 

しれっと、最初に観たときからイケメンだと思っていました、と評されたことも書いておこう。僕は目力が強い顔なので、マスクの上はまぁまぁ見られる。とはいえ、ご飯中もその評価に変化がなかったみたい。いや、この話は特に挿入する必要がないのだが、一般的に善かろうが悪かろうが、どうでも良くなったから若返ってきているのだろうと思う。表情筋を動かす(良く笑う、自分の感情のままの貌をする)、世界に対して斜に構えて知ったかぶりしない。

 

土曜日。運試し。僕はとんとんだったのだが、パートナーさんが爆発した。うしおととらは僕の方が原作愛熱いのに、ビギナーズラックなのか凄いことになっていた。

 

運試し場に行くこと自体、かつては罪悪感があったし、未だにやや背徳感もなくはない。

これって、自分の容姿が好きであると大っぴらに言えないところにも何やら繋がっていそう。いや、僕は特に自分のカタチが好きであるとは言わない。もっと上位のちょうど良いである。

 

この辺りの感覚って、ある意味宗教めいていると言っても良い。貨幣とか個人とか性とか、当たり前のことなのに、公然と表現するのははばかられるという常識観。お鍋を食べながらお互い友人が居なくなった話をする。僕は完全に閑古鳥だが、パートナーさんはマイルドに友人が残っている。会食した人は結婚して出産もしているが、その世界観の中でしか生きて居なくて、さすが我が友人だとのこと。たしかに特有の悲壮感みたいなのがなかった。男性だって会社に入って出世コースに入ると、何か悲劇的に自分を捉えて語る節がある。これ自体はどちらも問題なくて、問題は自分とは外れた人に対してどう捉えるかというところ。

 

本を読んでいる人も、本を読んでいる人の中だけで通じることしか話せないのであれば、別の軸の同じところで生活している。いや、話せるかどうかではなく、聞けるかどうかか。僕は聞く話で言えば食わず嫌いだが、貴方も私の世界に居るでしょう、普通はこうでしょうみたいな引きずり型の話し方は好きくない。

 

まぁ性の話は僕だけの話ではないから、そういう意味で自分の文章の中では書けないところはあるが、これは倫理観に抵触している訳ではなく、プライベートな個人観に抵触している。

 

そうして日曜日は、若干ごろごろした後、パートナーさんの地元へ。幼少期に駆け抜けた森に降ろしてもらって、いったん別行動。あちらは実家に顔を出し、僕は森成分を吸収する。雨が降っていて、森に振る雨の音って葉っぱに落ちたり傘に落ちたり池に落ちたりで、重層的な音がする。立ち止まって響きに耳を凝らすのも良いが、僕は歩みを止めない派。ただ、なんだか人が多くて、傘もささずにキャッチボールしてたり猫に餌をやったり、スパイがなんたらと書かれた車が停まっていたり、人が怖くて早々に立ち去って住宅街を歩いていた。

 

その後も、僕がくすぶっていたので運試し。まんまと布教されたエヴァンゲリオンが面白くてやっていたら、いつの間にか云万円買っていたので、ステーキを奢った。お金は使う道具なのだから、回した方が良い。という倫理観は宗教観まで至らず、あくまでそういう人も居るだろうが自分は違うという方が常識的ではありそう。

 

いや、この辺りの違和を可視化するために運試し場に通っている節はある。だって、僕は勝ったところで1人ご飯の単価が上がる訳でも贅沢品を買う訳でもないし、パートナーさんと良いご飯を食べるはあるが、別にこの人、僕があり合わせで作った雑炊でもきっとうまそうに食べてくれる感がある。あったらあったで良いし、無かったら無くても良さそう。もちろん、僕もそんな人物。

 

この感じ、世界にそもそも期待しないということなのかなと思っていたが、もう少し進むと、世界に期待しまくって良い、ただ、外れたときに世界(自分)が悪いとしないという感じの方が楽しくなってくる。

 

変な話、僕はあんまり幸せになっちゃいけないのだろうなという変な罪悪感がずっとあったのだが、そんなことにお構いする必要はないとなっている。誰かを犠牲にしているなんておかしげな倫理観。

 

 

もうそろそろもっと濃い目の味わいに移行。

味噌煮込みうどん美味しかった。

 

布教と言えば、大阪から名古屋の道中で、相棒のDVD2本立て。

見たことはあったが、注視したことはなかった。いやはや、面白い。こちらもまんまと布教される。1人の時に観るとまではなさそうとしても。

 

1本目は、えん罪と一事不再理の悪用という法律畑には津々なテーマ。パートナーさんは痛快な逆転劇として観ていたみたいだが、僕は悲しい話だなと思ったらしい。悲しい顔をしていたとか。別に誰か特定の人物に移入していた訳でもなく、個人には制度をどうこうすることこができないし、裁判みたいな、人間の英知の結晶の判断する場でも嘘を排除することはできない。のに、嘘はないですと演じないと、制度が成り立たない。もちろん、これは人間の限界であって、具体的な法曹界の個人の問題ではない。

 

情報が足りていれば裁判する必要はなくて、足りないからこそできるだけ公正で客観的な証拠でストーリーを構築するしかない。人って往々に自分にある情報だけで充分とするから、別に脚本があるとか、認識できない。整合性があるストーリーって犯罪が起こる有事の事態だと逆に不自然な気がするが、認識できるようなストーリーにならないと記録には残せないのだろうな。

 

もう1本がクローン人間の話。

これも倫理観で言うと、感覚的に禁忌だと思う。事故で無くなった子供の細胞を使ってDNA的に同型のヒトを生み直す。

 

お母さんが研究者で娘にそれを施すのだが、息子がおそらくカトリックでそれは神への冒涜だと言う。ほんまか。

 

僕は人クローン化については何も思わない。僕とDNAが同型な固体が他に在ったとしても、この僕と同じくは絶対ならないし、同定はこの僕にしかない。

 

 

手塚さんの火の鶏であったように、クローン化の問題は人が外から1つに同定できないところにありそう。人を特定する為には、どんな父母から生まれたかという系譜ありきから、有事の時にはDNA鑑定で肉体的にも固体は1つであらねばならないというだけ。

 

もう1つありそうな観念は、人間が特別な存在という感覚だが、これも宗教ではある。

クローン化が起こったらドッペルゲンガーが物理的に在りえて、裁判が錯綜する。

 

相棒では結局クローンの胎児は死産してしまう。

今の社会にそんな受け皿はないから、仕方ない。

 

やれやれ。

 

そもそも人って自分をどういう風に同定しているのだろう。

巷に溢れているマスク美人というか、ファッションが存在と等しい量産型美人さん方とか、文章をもって存在としているこれも量産型ライターさん方とか。

 

僕は何をしていなくても僕だという同定だから、他人もそういう風に捉えて居る。

なんだか僕を読みに来ている人が居るというところの「人」は僕の承認欲求を満たすことがない(そもそも承認欲求で自分を確保していない)、ただの固有の個人。

 

自分の中にインストールされた宗教観をもっとフラットにしなきゃなという次第。

フラットにしたところで反対の人の人生観は否定しない。あくまで合うかどうかだけ。

 

割とちゃんぽらんだが、一応ルールは守る人。ルールってほとんどが人の安全とか潤滑を守る為に創られているから、駐車場に通行路の反対からやってくるような人はやば過ぎると思う。罰せられなければやらかしても良いとか、もっと身近なルールだと、飲食する為の場所で勉強とか仕事するとか。スターバックスの席に座って居る人達って当たり前にそういう所作をしていて1人では持ち帰りでも絶対行けない。

 

そういうところでしか勉強できないというか、そもそもその飲食店の回転率を滞らせているということを学習した方が良いと言うか。まず学ぶべきはどこなのだろう。

 

量産型意識高い風の感じに寄り着けない。

コーヒー美味しいのに。

 

はい。

 

(良い顔して寝ている)

 

 

ほんとうの神様が居るとすれば、人のことを否定したり操縦したりするはずがない。

そういう神様はあくまで人が創ったもの。

 

おやすみなさい。

 

(僕の存在はどれくらい同定されているのだろう。)

 

良い夢を。