波長

 

 

よぉく寝た。3度寝で通算9時間くらい。個人的には良く寝ると余計眠いし調子がちょっと悪いのではないかという経験則だが、調子の良し悪しも結局のところ気分でしかない。特に行動が左右されることはない。

 

稲刈りが終わって耕された田んぼの横の建物。かつてはTSUTAYAで、カフェを経て、今やゴルフショップになったらしい。オープンから数日しか経ってないが、オープン日には花がいっぱい置いてあったし、朝からお客さんがいっぱい居る。この辺り趣味ゴルファーが多いのは分かる。

 

もう10年以上この街に居る。この単位だと建物の推移が著しい。大通り沿いだから大丈夫だろうというコンビニもすぐ潰れる。コンビニ跡、今は家族葬のお店になった。物体的には人間より遥かに強固なのに、ころころ入れ替わる。そんな競争の中、最寄りのコンビニは潰れる気配がない。だいたい行っても賑わっている。地場が良いのだろうか。店員も充実したのか、店長さんも見ない。

 

そういえば、帰り路のスーパーで見なくなった年配の店員さんがいる。男の子が2人ほど入った。器は同じでも人が入れ替わるのが会社システム。本日のスーパーは前でセルフレジしていたマダムがお釣りを忘れて居たから案内した。現金欠乏なのに全く邪念が浮かばない。当たり前だけど。

 

仕事。月末はそこそこ忙しい。

おせっかい気分にならないのは不調の作用かもしれない。とはいえ、なんだか余力はあって、ふと、あれ、僕このままで良いのかという想念。

 

あと、猛烈な自己嫌悪感を催す。そうそう、こういう精神状態だったわと俯瞰して眺められるのだが、もともとこういうレベルの自己肯定感だったわ。マイナスだったし、今も特に変わっていない。どんな能力があろうが、ルックスがそこそこだろうが、何を足したところで特に肯定できるものではない。

 

ただ、卑下しているかというとここもどうでも良くなったのが最近の話。

自分を肯定とか否定のものさしで測ること自体が不要だということ。楽しく生きることって、別に肯定できる自分で居続けることではない。倫理的にクズだろうが自分で在ればそれで良いのでは。

 

 

自己嫌悪感について言語化すると、なんでしれっとここ(此岸)に居るのだろうみたいな感じ。場違いじゃないかって。この場違い感は、当たり前にすべきという価値観がもともとあまり実感できなかったことによる。この感覚はもっと遊ぶ方面に使うところだし、これが僕だし、問題ない。

 

落ち込んでいるとかではない。念のため。

落ち込むって行動に影響する心の状態だと思うが、本日もちゃちゃっと晩御飯を作った。行動と精神を切り離すことが日常をこなす秘訣だと思うが、連動している方がなんとなく人間ぽくはある。人格が統合されるべきというのが現状の人間の完成型みたいなところはあるし。

 

まぁ、元気。

 

 

閑話休題

 

人格と言えばメタバース。たしかに生まれもった形とか求められるべき精神体以外の人格で生きる世界を提供するという意味では自由な世界にはなると思う。資金がないから諦めるというハードルを越えて、同じ界隈のクリエーターが集まるコミュニティが出来上がるのが次世代のSNSだとか。

 

ほーほーとか思いつつ、これってどこかで読んだことがある社会形態。たしか、古代ギリシャの民主制より民主的な社会があったとかという話。イオニアだっけ、少数精鋭の協力体制

ができていたとか。ただ、能力主義だから、あくまでそこに参加できる人達だけで協力するみたいな。よく似ているような。

 

集合知とか集合的表現を目的としているのであれば集まる意味はありそうだけど、個の発展の為のコミュだとすると、落ちる人も出て来そう。

 

いや、そもそもどういうコンセプトなのかはあまり読めていないのだが、俗世に憂き目を見ている天才の世界なのか、よく分からないところ。

 

 

やれやれ。

 

 

共感を得られないだろう、個人的な記憶にまつわる話。

 

外部的な情報の記憶が外部だけに留まるっておかしいのだが、誰も気にせず記憶力を鍛えている。記憶って無意識が収納している情報を意識が掬い上げることであって、何かを引き出せるということは芋づる式に他の連想も釣り上がる。

 

いや、外部メモリで賄っている説もあるが。

 

要は、ふとした時に想い出すのって、そのときの精神状態といまの精神状態が近い時に起こる。物理学的にというか「時間の終わり」の本的に言えば、脳内の粒子の配置の相似になるの。

 

僕のいまの気分の配置は、どうやらシクシクしていた頃に近いらしい。

当時の見てはいけなかった情報が出てくるお風呂時間。同棲していた恋人さんの携帯(当時はガラケー)なんて興味が無かったのに、何故か暗証番号も通過して浮気相手とのやり取りを見てしまった記憶。恋人さんに気付かれない、大丈夫? 大丈夫みたいなのとか。

 

うわ、名前まで想い出してしまった。

 

そのときの感情は風化していないが、通り過ぎた人でしかない。

僕はあのとき、相手が悪いのではなく、自分が足りなかったとして自責していた。自分を傷つけることができる最上は、自己でしかないという思想はこの辺りから。

 

今だったらというか、もともとの僕は人を自分の手許に置くことに固執していないのだが、それが愛の証明みたいな世界観が正常とされているし当たり前だから、なんか変だよな。

 

パチンコの話って昨日書いたっけ。

書いた気もする。くじ引きで319から当たりを引くが、一回引いたら外れくじは戻してもう一回シャッフル。理論上は1万回転でも外れ続ける可能性はあるが、どこかで収束するという期待を持って打つ。

 

運ってそんなもんか。

 

運もどうでも良いことで、今の僕だったらもう少しきちっとさよならできたとは想う。

去り際の言葉が、「もう私とは会えないよ」だったのだが、そこをスルーして新幹線に乗りシクシクしていた。

 

自他が未分離だった。

 

未分離である自分が自分であるという世界観でも良いけど。

 

総括。

僕は自分が外から学習した不調に全然左右されなくて良くなった。人の不具合も僕のせいとはしなくて良い。

 

言葉足らずだがここまで。

 

おやすみなさい。

 

元気でありますように。