変化

 

 

 

第1の実家が燃える夢。相変わらず親族辺りに追われていて外に出たら煙。逃げなきゃとなりつつ、戻る。オレンジごーごー。熱さも生々しい。なにやら野次馬が集まっていて、見世物ではないぞーって叫びそうになる。野次馬の顔もオレンジに照らされていた。

 

やばい傾向なのかと起きた後に調べてみたところ、寧ろ吉兆みたいな解釈だった。変化の兆しらしい。なるほど。たしかに火って摩擦がないと起きないし摩擦は動きだし。今読んでいる吉本隆明さんの「書の解体学」の中に火(摩擦)の観念の由来はまぐあいではないかという解釈があって、なかなか面白い。

 

 

さておき。

なんだか仕事時ちょっと不調感があったのだが、帰って鏡を見ると良い顔しているから問題ない。ご飯も予定通り作ったし、体は重くない。若干眠くはあるが、多少眠くても仕事くらいはこなせる。

 

先生が、あらゆることを想定しているから頭使うと言っていた。たしかに想像力というか想定力が半端ない。頓珍漢な新人さんの素朴な疑問にも真摯答えて居ればそりゃあ疲れる。でも、結局インスタントで回答がやってくることって、身にはならないのだよな。ちょっとは自分で考えてみないと。

 

まぁ先生は答え合わせみたいな擦り合わせはあんまり好みでなくて、問題を持って行くと自ら1から回答してしまうという癖があるから、自分の考えの道筋の回答が返ってくる訳でもない。僕は仕事では結果が合えば良いというスタンスだから、手段とか過程はどうでも良いという感じ。先生は良く目的を問うのだが、これがどういう結果を求めているのかということ。手段とか過程だけ合わそうとしても目的に適わなかったら仕事ではない。

 

賢いけどややこしいという評価のお客さん。個人的にはあまり賢いとは思わないのだが、ともかく。今日話していて、ガイドの文章があるのに、ガイドは文字数が多くて読めないと言う。若者ではなくても文字離れ。たしかに手順書とか仕様書の中から、まずもって自分の疑問の回答箇所を探すために余計な部分も読まないといけないから、読解力の外に当て勘みたいなものも要る。国語教科の評論文はまさにこういうことを教えていて、国語は大事だと思った。

 

会話だと相手が察してくれて正しい解答をくれるという感覚も依存し過ぎな気もする。そもそもほんとに賢い人は、そこまで正しいことを求めていないような。正しさよりも収まりの良さとか、バランス感覚とか。正しさって結局のところ外にあるもので、当人のものではない。もっと賢い人は真理を求めていくが、こういう人は正しいことを気にしていたら探求できないはず。

 

もちろん、ガイドだって人が作った説明書だから、完璧に正しいとは言えない。文字通りに読んだとしても文字の解釈は読み手に委ねられているし、国語辞典を紐解いたところで、特定の語用が完璧に読解できる訳でもない。これで言ったら当然発話の方が正しさの信ぴょう性は劣る。振り返れないし、語義より声に含まれるメッセージを印象として受け取るし。

 

僕は正しさに信仰はないから、特に気にしていない。

正しくありたいとか、正しく伝えるとか無理なことはしない省エネ主義。

 

説明書界隈はそのうちもっと発展して、バーチャル的になっていくという想像。

SFの世界だが、自分の行動様式とか思想傾向とかを収集したAIが正しい判断らしきものを提供してくれるかもしれない。ただの無意識の可視化のような気もする。

 

報告文も文ではなく、動画になるのかもしれない。ただ、動画って臨場感があるだけで情報量は拙くなるような。パワーポイントでデータが見え易くなったのは時代的にちょっと前だが、見易いということは省かれた情報がある訳で。

 

どうでも良いが、ガイドが読めないと言ったお客さんは部下からの報告文をどういう風に読んでいるのだろう。新人さんみたいに自己満足で全部書こうとするのも困りものだが。

 

まぁ、僕は人の文章を添削できるような客観的に培ったものは皆無なのだが、読み物としての文章の味くらいは分かる。味が分かるということは、そういう味で書けるということになりそうだが、まだまだ。

 

言葉は人類が生き延びている限り絶滅しないのだろうな。

 

 

やれやれ。

 

僕は日常的に言葉を読む質だから、人から会話しながら聞く方がしんどい。まずその情報が聞かずに済まないかということを調べるし、文字数が多くても問題ない。人から聞くって変な話、相手の時間を奪う行為だしどうしても聞くしかないという最終手段だと思っている。時間は主観的なものだから、僕の1分が相手の3時間になるかもしれない。そんなこと気にするHPSの人は居ないと思うが、僕はずっとそんなこと気にしていた。今でも気にしている人格は出てくる。飲み会の席でも質問する質。

 

書を読むことはこういった相対時間をいちい気にしなくて良い。僕が時間をかけるだけ。

 

読書感想文についての違和感についての更新。

だいたいの人って、というか、僕も宿題の感想文は引用コピペで文字数を稼いでいたのだが、そういうことをオトナもやっている模様。

 

こういうのって、旅行記において自分の体感を写真で伝えるみたいなのと近そう。文章化の省エネ感。

 

いや、別に良いのだけど、フレーズとか画像で表現される体感で良いのかというところ。

 

僕は小説を読んでいるときでも散歩しているときでも、それをコピペとか画像に還元できる体感をしていない。小説は文字を食べた光景として収納されるから、フレーズとしてはあまり残らない。

 

記憶と同じくらいの情景で残されるものにいちいち区切って感想文を書けない。

もちろん登場人物に移入した視点ではなく、俯瞰だが。

 

言葉でも画像でもなんでも良いが、結局のところ読むべきところはその表現物から感得する先だし、情報とか意味そのものではない。

 

森博嗣さんの小説が優しいのは、読者に何も求めていないところ。

ついでに言うと空間描写が鮮明だから、読んでいるだけで世界に居て違和がない。賢すぎる。

 

はてさて、どういった変化が起こるのか。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。