無意味

 

 

中学校くらいのクラスメイト複数人によってたかって糾弾される夢を見た。私たちから意識が離れているの、とっくに気付いている、もう名前も覚えていないでしょう、って。夢の中の僕は確かに挙げられた2人のことを思い出せない。覚えていないでしょうって言われたら思い出せなくなる。ただ、ポケモンみたいに歴代のクラスメイト何人言えるかなとやると、だいたい出てくるような気がする。意味がないからしないけど。

 

無色というか、ブレーキの夢だな。相変わらずのずれに対する怖れ。ずれを求めなくても素朴がずれていることを押し込めてきた歴史からの忠告。

 

 

朝の脳は一番活発だと言われる。前の日の情報が睡眠で整理されて情報を取り入れる余地が一日の中でもっとも広い。でも、朝にはあまり本が読めない自分が居るのは何故だろう。習慣だとすれば覆せば良いがそうでもなさそうな感じがした今朝のうごうご。

 

読書自体が運動みたいなものだが、精神の動きのウォームアップも兼ねている。朝に読む文章は何やら動きない気がする。

 

というところを思索してふと出てきたのが、人体の恒常性(ホメオスタシス)のこと。体の状態を一定に保つという機能。ただ、これはより良い状態を保つというより、過去の常態に合わすというような感じであって、平熱が下がればそこに保たれるし、特に良いとか悪いとかいうものではなく、単なる機能だとしている。

 

僕は常々精神にもこういう機能があると思っていたのだが、なんとなく飛躍がある。体の機能と精神の機能がどう連動しているかという空隙。ここを埋めるのが今朝の発想で、脳のシナプスなのか、電位なのか粒子の配置なのかは不明だが、寝ている時により常態に近い配分に戻っているのではないかって。

 

朝の脳は保守的だなと解釈されたのはこういうところで、フラットに均させているのではなく、準リセットとしての1からみたいなことになっているのだろうな。

 

この暫定からすると諸々がすっきりする。人が一日を内的に区切るのが睡眠であることとか、人の人格や精神が容易く変わらないのは常態の配分に毎日ある程度戻っているから。

 

何か啓示的な出来事があったとしてもそれに合わせて運動を変えなければ、睡眠の仕分けからは落とされて、何か良いことがあった記憶として非生活の領域になる。脳がここで仕分けているのは、生活(常態)かどうかだと思った。せめぎ合って保守的な部分が夢に出てくるし、朝一の自分の精神がそれだから、ここで本を読んでも静的な情報になる。

 

動いたあとの脳の方が活発なのは、日記を夜に書いているからという節もあるのか。朝に書いてみたものと比較しないと答えはでないが、朝にこんなにまとまった文章を書ける気がしない。

 

リセットされた僕は無口という保守的思想。案外そうでもない気もしてきた(保守の反対ってなんだっけ?)昨今。まぁ、人一般に適用できる会話術は持っていなくて、あくまで会話は個別的な事象としているから、話せる人とは話せるだろうなという話。もちろん、自分のことばかり語ることはない。語るべき自分も特に存在していないし。

 

あくまで僕の人生劇場での解釈。僕が決めるしかない筋書。

人が入って来てもそのままにできるほど僕は人を蔑ろにはできないのだが。

 

 

なにやら凄く個人的に書きにくいことを書いている。

内部のブラックボックスの秩序の書き取りみたいな。これは出さないというより出さなくても良い領域だしむしろ出すと何か変なことになる(からやめていた)。

 

今更さらさらという感じである。

外から自分の文章を見て、内的に整理されてない人物が書けるようなものでもないのは読めるし。

 

こうやって、自分を剥いていく。本日のお弁当タイムの公園で一服した後、クスノキ先輩の隣のベンチに向かう道中で、ふと、自分って豊なのだなと思う。何がと言われると何もないのに、言語の前にそういう感覚が起こる。

 

できることもないし、したいことをしているということもないのに。

 

僕に何がないかを書き連ねても良いが、否定では存在は定義できない。

なんなら肯定でも。

 

自分を好きになれーとか、自分を信じれーとか世の中の見解だと自分を肯定することが自分の存在を認定することだとしているみたいだが、僕は自分のことを好きでもないし、信じてもいない。それでも豊か。甘やかしていると言えばそうだが、何もしなくても良いし、何をしても良いと自分を許容しているだけ。放しても食にも性にも走らなくて不文のルールは守るから、なんでも良いやという感じ。

 

何をしても良いってしたときに、本を読んで既存の自分を壊す遊びをするのがなかなか乙な奴とは思っている。

 

ただ、ハイヤーセルフみたいな人格はまだ隠れている。いやいや、結局何がしたいのだ己はというところが明確にならない。だから、したいことをしている人もしなくて良いと決めた人も須らく尊敬対象。ただどちらの人物でも、自分に巻き込まないと他人が存在しないというのは逃げ対象。どちらの決め方であっても相手が自分と同じところに居ないと仲間ではない、安心できないというのはおかしい所作でしかない。

 

結局のところ、豊か部分をどうお裾分けするかという手段のところなのか。

自分がしたいことをしていたら結局芸術になったとか学問になったみたいな天才でもないが、凡才の盆栽がここまで育った意味はどうなるのか。

 

そういえば、言語表現の領域の話。

 

手紙という媒体は用があるからあえて書くものであるという枠がある。文章体にはほとんどこういう枠が設定されているような。noteの記事は表現か情報かでないといけない風量があるし、もっと私的なSNSだと魂の叫びみたいなうごうごの書き取りだし、何かの意味、意図がないと書いてはいけないという風潮。

 

徒然の書き取りでも、文体的な意図的操作があるような。

要は、文章は外用の振る舞いであるということ。日常的な報告文みたいな文章ではそういうことは書かないし、ただの公的記録はありえない。これが純日記みたいなジャンルなのだろうな。自分が純粋に生活の中で何を見て、何を言語化するのか。

 

マスクを外して良いのかどうかという基準の話もあったが省略。

 

文章をどう読むのかって、文章情報を客観的な情報とか物語として読むのか、それを書いている現実的な実体が居ることを前提とするのかで随分変わるよな。

 

僕の漂流文は毎日一周して戻って来ているから、観測されると特に動いていない。

 

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。