時間

 

 

 

流れていく時間自体に効力はなく経過による原因が効力を持つ。流していくと時間自体が原因になる。「質量のある物は消える、質量のないものは忘れる」という名言は時間経過を前者として捉えている模様。本当は何も消えてないし、忘れてもいない。ただ形が変わっただけ。

 

過去は解釈によって、未來は行動によって流転する。ここで変わった前後の自分が自分ではないとできる人は居ないはず。

 

卵が先かにわとりが先かの答えは、にわとりが先だという解釈を読んだ。はじめてにわとりと呼ばれる生物が生まれた卵はにわとりのではないとのこと。たしかにその通り。

 

運試しをし終わって、運とは何ぞやと思索する。運ばれてくるのか運ぶのか。

これは正答があるのではなく、視点を何処に置くかの話。どちらにせよ運動が起こって移動される。

 

さておき。

 

すっきりしたというか運試しが自分試しにもなった土日。

運試し場では自分は生きていけないと学習したからここの話は特にない。

 

何かし出すと寝は忘れないが食は忘れる。この2日でまともに食べているのは今だけ。しばらく経済活動できないから、読書活動になるのか。何の目的もなく読書で食を忘れるのはRPGRTA走者みたいだ。

 

 

土曜日は、なんだか疲れていてお酒も飲まずに文章も書かずにぐっすりした。なんの外的要因(体調不良とか明日仕事が早いとか健康診断とか)もなく、主観的原因もなく、ただ寝るかという感じで寝られた。もともとは寝るためのアルコールだったはずなのだが、今や遊びうの領域なのだと気付く。

 

文章体は遊び場なので完全に任意の運動だが、ふと想った。途切れ途切れに書いている人は途切れて居ても生活しているのだろうと余白の想像ができるが、僕のような文章体は存在が習慣化しているから、1日途切れたらあれ、どうしたのだろうって余白が起こりそうだなと。自分が認識できる時にしか人が存在しないという感覚は許容範囲を越える人数が存在しているインターネット世界では正しい認知機能。

 

僕は時間経過的に一番長く過ごしたはずの母親のことを全く知らないという認識だから、現実的な情報とインターネット世界の文字情報にどれくらいの違いがあるのかは不明。面白い文章を書く人の方が、現実的に面白く発話する人より面白いような気はする。

 

認知が歪まないと人ではなくてただの記録媒体になる。自分の世界が客観だと想える人はおそらくその視点に賛同する人が多いということが確証になっているのだろうが、そうじゃない自分が居ないと良いなと思う。世界への視点を矯正すると体に不具合が起こるし。

 

アンダーグラウンドで、正常な視点を持った人が、「あの人達は自分達とは別の基準で動いているのだから、裁判なんてしなくて良いと思っています」と言う。法治国家において法のルールに従って居ない人は法に則る必要がないという考え方。もちろん正常な人だから、裁判はあるのでしょうなという常識もある。

 

これ、真っ当な考え方に見えて、法治主義に真っ向から反している。

 

人権って人が人であるが故に持っている尊重される権利であって、ルールに反しているとかルールが分からないことによって基準を変えてはならないもの。もちろんあの人達は他人の身体を害するという「犯罪行為」をしたのだから、その行為の害悪は処罰しないと未來にやっても良いのか―と思う人が現われかねない。人格ではなくあくまで行為を基準とするのが現代の刑法。行為を判別するために意志内容を問題とするけども、傾向ではなく認識。

 

心情で裁判すると碌なことにならないという人類の学習の結晶ではある。

 

この下りでちょっと気になるのが、メタバース上での違反行為のトラブルってどうやって処理するのだろう。出禁になるのだろうなと思いつつ、IDの判別はブロックチェーンで肉体でいうところのDNAみたいに見えるのだろうかとか。そうなってくると言い分を聞く必要も無くなるだろうか。憲法とか刑事訴訟法で言うところの告知と聴聞の権利はメタバースにあるのか。

 

 

やれやれ。

 

どうでも良い自分語りが始まります。

 

本日運試しにより経済体に重症を受けた。でも、そういえば、本当にやばかった時期はもっと前にあって、重体だったなぁと状態が近くなって思い出した。クレカの停止とか、その日を生きるために働くとか。院まで出て何をやっているのだという感じだが、おそらく1人で生きていたらそういうことになっていなかった。

 

金欠で不参加だと言っているのに、交友費を自分に借金させてまで参加させようとする人とか、今想うとなかなかおかしいと想う。支配下に置きたかったのかは知らないけども、よく分からん。

 

僕が断れたら済んだ話なのだが、あの頃はそれほど自分が確立していなかったから、なんとなく流せて負荷だけが溜っていた。ドМ精神だから楽しめたのは確か。

 

そうしてその頃付き合っていた恋人さんともお別れし、ダブルパンチで3年くらいシクシク過ごしていた。いっちゃん退場に近かったのはこの時期。記憶もあんまり繋がってないし、ライフラインも止まるから日雇いでなんとかしていたし。良く生き延びたものだ。虚構と虚無の世界。

 

流石にこの頃はアルコールに逃げていたか。

自分を忘れる為の合法的な道具。忘れている時にも無意識で過ごしているから、結局は自分からは逃れられないだが。これって酔っている人を冷めた目で見ている人も同じこと。

 

 

何をしたところで自分を生きるしかないし、自分のちょうど良い塩梅を他人に投げてはいけない。

 

 

運試し場で、自分の運はこんなもんかと試しているヒリヒリした最中、満月さんを引いた僕の引きは強いという想念が起こる。これだけ自分で居て良いということを許容してくれる人は居ない。人生のレールとして僕を捉えて居ないし。

 

僕は人生をレールとして捉えるのは駄目だった。

器としては十分辿れるキャパあったのに、迷子を自発する人生劇場。

 

この迷子の中に、特に人は居るはずがなかったのに、座敷童が現れるというケサランパサラン。実在したらしい。

 

まだ測り切れていなさそう。

 

 

未來を変えるのは何か。

 

愛かな。

同じような状態なのにニコニコしている。

シクシクをもたらす存在も良いが、にこにこの方が楽しい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。