リハビリ

 

 

7時くらいに目が覚める。朝ごはんを食べるのは胃がもたれていて、しばらくゴロゴロし、朝活ダーツ。道中のコンビニでおにぎりを2個買う(本日の日中これしか食べていない)。

 

良い立ち位置とか座りが良い肘の居場所とか力の入れ具合とか。結局そういうことを何も考えない方が上手くいくという感じ。大学時代の方が上手くできていたのだが、これって連続で投げまくっていたからだよなと思った。僕は考えながらやっても上手くいかないというか、良い塩梅を知っているのは僕の意識ではない。もっと馴染ませれば次の段階にはいけそう。

 

言って1時間で1000円くらいだから、趣味的活動としてはリーズナブル。運動もちょっとできる。力は要らないがなんとなく、自分の体の動きを認識できる。良く走っている人を見かけるが、自分の体の動きを意識しながら走っている人ってどれくらい居るのだろう。いや、僕も自分の体と意識が同じものだと思ってきたが、そんなことないのだよな。おそらく普通は体と意識が不一致を起こしてから気付くのだろうが、むしろ一致向きで今そんな感じ。体も作品みたいなもの。

 

その後は、別軸の調子試し。まぁまぁ変な性質を使いこなし、楽しみながら勝ち切った。

まぁ銭って須らくあぶくのようなもので、労働の対価という正当とされている賃金だって、自分の労動ができる時間内のあぶくのようなものと思っている。賃金信仰は日本にもあるし、むしろプロテスタント由来に想えなくもないが、何から得たところで人生劇場内でしか使えないのは確か。だからとてどうでも良いものとは捉えていないが。

 

 

そういえば、カラオケもしときたいところ。

基本的に下手なのだが、調子が良いときは良い声と言われることがごく稀にある。

だいたいの人にあんまり聞き取られない声。

 

あぁ楽しい。

 

 

やれやれ。

 

そろそろ本の話もしておかねば。

自分のことがどう見られているかを把握しながら生きている現実体だが、こんな浮世離れした文章体を読んでいる人が僕をどう読んでいるのは不明。少なくとも一般論で語らないのが良いのか。生きれば生きるほど一般論が重くなるなんておかしくて、特殊事例の方が増えないか。

 

運試しで勝ったところで経済戦闘力はマイナスなのだが、それにも関わらず満月さんに仕送りをする。ふと、大昔、父親が同じような所作をしていたことを思い出す。お小遣いを突っぱねてしまったのだが、失敗。親子じゃなければもっと話せたのにな。

 

本の本題。

 

お風呂読書に追加した西尾維新さん。ピンポイントで運がある。

運ってそのときにそこに居るのかどうかであって減ったり増えたりするのものではない。良いことも悪いこともプラマイ0になるというのは、同じ場所に居続ける作用と反作用みたいな。

 

カウンセリングを受けている主人公が、自分の精神傾向に名前が付けられることに対する安心感を受け入れる。たしかに色々なことに名札が貼られたら、自分がこうですって人にも提示できるから、省エネにはなる。ただ、これをアイデンティティとするのはどうも違うような。

 

マイノリティだからといって、人を蔑ろにすることが赦されている訳でもないし、そんなことより、他から名前が付かない存在で在るべき。

 

自己紹介でサイコパスですって書いても良いくらいだが、そんな前提条件付けるほど、名札に固執していない。

 

僕は人を利用できないサイコパスで、HSP傾向で人の変化が無駄に観測されてしまう。

感度が高いことを自分の精神のわずらわしさにカウントしない。敏感ですっていう人のほとんどは自分の感度の煩しさしかなくて、特に他人がどうのではなさそう。自分の敏感な世界から離れたら人のことはどうでも良さそうだし。

 

同列に捉えられるのは困る。

敏感な人って、相手が敏感であるかもしれないという外を意識できなさそうだし¥。

 

なんというか、どんな人も色々なレッテルが貼れていく訳だが、僕はこういう意味で名無しで問題ない。だから相手のことも自己紹介とは別に捉える。

 

これができない人とは関われないで良いよな。

別人として人と関われない人じゃないと無理。

 

寝よう。

 

お休みなさい。

 

良い夢を。