はれぃ

 

 

健康診断を経て、運の壁を乗り越えて愛知に至る。

運も世界線の算段に入れるのはやべぇが、その予定が現実化するのはもっとやべぇ。

 

僕は人のことを基本的に否定しないから安泰ではある。ただ、僕で安心できるかはなかなか微妙ではある。僕は相対的安心の慰撫を人にしないようになった。よしよししないと動かない人と関係しなくても良いし。いや、相手を動かすことを目的としないよしよしはして良いし、する。

 

 

なんだっけ。

 

あぁ、健康診断。

2回目だから、去年のとの比較の数値が出ている模様。視力は変わらず両目裸眼で1,2。問診する先生は、なんとなく高圧的。去年とはいえ2回目で勝手知ったるだから迷わずアトラクションを消化した。

 

去年より体脂肪率が下がっていますけど良いですかって聞かれたが、良いも何も根拠がない。筋トレした訳でも食事制限した訳でもないし。まぁ、人の体付きを変えるのは生活習慣だけではない。これを言語化すると満月さんがもちもちするから言わないが、体付きが変わった時点で問答無用な気がする。なんの指南になるかは知らないが、パートナー関係の指標は、自分にとって相手が都合良いではなく、自分の顔付きとか相手の言葉遣いとかの劇場が変わること。どっちも変わらないと醍醐味が無いと思います。

 

まぁ承認してくれる他人に包まれたいという衝動は赤ちゃんの頃から誰にでもある。

でも、ここは交換可能性があるからほどほどにした方が良い。

 

ともあれ。

 

そういえば、こっちのお風呂読書で、詩人は集合的無意識に囚われている言語の壁を意識するという話があった。ありのままの言葉で発しようとするときに、慣用が妨げになるという話。詩人でなくても言葉を意識すればここを気になるような気がするが、noteの記事で流れている人達は、そこらへんをすいすい泳いでいる。このすいすいさに個人的に引っかかるところがないのだよなぁ。言い回しが上手いはあるけど、あんまり真に迫って来ない。鑑賞物としてはちょうど良くても、味わうにはもっと中身の開示がないと。ここは文章というより、それを書いている人の話。

 

 

本日のお風呂読書にこっちからも入れていこうと民事訴訟法と憲法の本を持ってきた。

 

表現の自由の話。

 

文学とか芸術界隈の学部で、世の中が表現をどう捉えているのかという学って習わないような気がするし、法学部を通って来た人もあんまり知らないような気がする。芸術としての表現がどこまで社会的に赦されているかみたいな。想像するに、あってもよさそうなコマではあるが、憲法学者が美学を気にしているような感じもない。そうだとしたらきっとその人は憲法学者界から追放されそう。

 

そうでもなくて、表現の自由というフレーズに人ってどんな印象があるのだろう。

自分はその自由の枠内で表現しているから他所事ですっていう感じなのだろうか。

 

表現の自由憲法学的な立ち位置としては、自己実現と自己統治という馴らされた定義があるのだが、気になったらすぐ出てくるから省略。

 

現代社会の神様みたいな社会契約論のベースの反逆になるからあんまり言うのもアレだが、そもそも人権の個々人の人格が平等で価値があるという設定から無茶なのではという説。個人が個人になればなるほど均すのは不可能になる。でもこの文脈で言えば、人ってそれほど孤高の個人になりたい訳でもない。相対的な価値を捉えているという印象。恋人の数とか。

 

 

で、表現の厳密な話。

 

表現には価値があるというアメリカの思想から輸入された、思想の自由市場という概念。これってより良きものが残るという意味では現代SNSにも承継されていそうな。

 

ただ、僕が思うところだと、表現に価値があるっておかしい。誰かの表現が他の誰かと相対的に互換できることはないし、表現は交換できないという意味で無価値に統一すれば良い。無価値だと寂しい感じがするが、そもそも表現は金銭換算できないし。

 

表現の価値を優劣付ける概念自体がまぁまぁおかしいけど、これをオカシイと言える人は、きちんと自分の表現を意識できている人。

 

自由は誰かを攻撃する武器でもない。

 

 

短い。

 

明日はもっと長くかけるかどうかも知らない。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。