度外視

 

 

20:52から。

 

 

満月さんの実家に居座っている。本日もお泊りして明日仕事前に帰る感じ。

全然気を遣っていない。なんなら我が実家より気楽。とか言っていると血族の母に怒られそうだが、気分というのは頭で考えた理屈でどうにかなるものではないから仕方がない。

 

 

午前中はお父様がゴルフの練習で打ちっぱなしに行くとのことで、満月さんと一緒に連れて行ってもらった。持ち方から教しえて貰い、センスはあると言われた。ゴルフの体の動きはテニスと似ている。現実的には対決になるから相手を上回るということになるかもしれないが、実際は自分の身体との対話のような。上手く当たって飛ぶのは結局スムーズに体が動いているからであって、逆に言えば、その為に対決とか比較があるという意味で、相対がないと絶対が把握できないという可能性。

 

やんわり汗ばむくらい動いた。バッティングセンターは全身の筋肉を使うが、ゴルフの打ちっぱなしはもっと内側の体幹を使うっぽいから筋肉痛にはならないっぽい。スイングの幅で距離を調整できるようになってくると面白いと思う。

 

満月さんのお姉さんの旦那さんはお父様と話したいと言っているらしいが、部屋に引きこもってそういう機会が無いらしい。ただ、僕とはまぁまぁ話してくれている模様。昨日は都市計画上の準工業地域の物件についてお話させていただいた。

 

昼ご飯にうどんとマグロ丼のセットいただく。

 

午後はお母様を連れ出して、大人の遊び場にちょろっと行ってきた。公平でもないが、あんまり外に出ないという話だから連れだしてみる。意味分からんと言いながら、結構楽しんでくれたのでは。

 

相性もあるのだろうけども、人たらしの人格を開放しているなぁとは思う。

これを言うと道徳的にどうかと思われそうだが、別に満月さんの延長でお母様もお父様も捉えていないというのが大前提。本来であればもっと敏感にならないといけないところなような気もするが、気遣い的なところだとまぁまぁナチュラルにやっているような。

 

風の歌を聴け」の主人公ではないけれど、世界を捉えるために、自分を蔑ろしていた節がある。これは別に悪くもないし、損をしたと思っていない。その分、相手からお勉強させていただけるし。

 

時々憤怒氏が出てきてくれて、あまりに自分を蔑ろにしていると、自分を守れよと言ってくれるもんで、調整はきっとできている。最近ほんと出てこない。

 

そういえば、運転中に憤怒氏が出てくるような人も居る。店長も昨日、「こいつとろくさいな」と呟いていた。

 

ただ、こういう憤怒氏って、世界を悪者にするタイプであって、ニーチェさんが言うところの「ルサンチマン」としての怒気なのだろうなと思ったり。憎しみは何も生み出さないといいうのは綺麗事かもしれないけども、怨嗟の檻は現実的に在ると思っていて、そこから離れてみたら案外景色が綺麗に見えるということはある。

 

僕が人たらしめいているのは、この辺があるのだろうと思う。

素朴なところでは道徳の連鎖にも飽いているから、そういう意味では人とは繋がれないのだが、一期一会の人でも利害とは関係とのころで把握しようとしている。結局縁だしなぁって。

 

そういう世界観だからこそ、変な人というかちょっとずれたお客様が多いのではという満月さんの感想も的を射ている、人間関係は経験則のものさしでは測れないから、情報量が半端ない。残して経験にするというより、もっと流動的な瞬間をよく見るべきという感じ。見るというのは見えるようにするということでもあり、その為には言語化スキルが要る。いくら目を凝らしても、言語化できない資格領域は見えて居ないのと同じこと。

 

 

簡単じゃないから楽しいのが今のお仕事なのだろうな。事務作業的なものは一期一会にせずに経験則にして思考と作業の時短にしていくところ。ここでのやらかしは学習にして、次やらかさなければ良いだけ。

 

 

明日、きっと盛大に弄られるだろうことはまたここで報告する。

ちゃんと笑われるということは、心を許して貰っているということだから、特に嫌だとは思わない。

 

嘲笑ではない笑いは心の柔軟運動である。

 

僕はそれはそれは毎日笑って過ごしている。

「硯の笑顔は凄い」みたいなことを高校の時の同性の同級生が言っていたことが残っているのだが、これっておそらく他意がない笑いだったのだろうなと。良く言えば無邪気、悪く言えば場違い。

 

無邪気に笑えるということは他意なく泣けるということでもあり、顔としての感情表現は随分豊かになっているのかも。

 

明日早いのでこの辺で。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

ついでによく笑えますように。