へんかく

 

 

 

特に何もないのに日記を空ける。昨日くらいはリアルタイムのよう。どれくらい空けても鮮明のままなのか。書くのに飽きるに違いない。書かなくても考え事は書いていうくらいにはしているし。

 

言葉で考えるということは、言葉の定義と規則に従うことで、本来の考えとは微妙に違うのかもしれない。ややこしさが増えていくのは問題ない。シンプルにするためにはいったんは煩雑にしないといけないだろうし。

 

 

さておき。

 

まずは昨日から。朝は鍋の残り汁でキムチチゲ風の雑炊。甘味が強くて優しい。平日の出勤時間くらいに出発して、ダーツに行く。

 

今回は馴れたようで、3時間くらいぶっ続けで投げていた。現状筋肉痛もない。手抜きして弛緩して投げた方がうまく飛ぶ。狙ったところに飛ぶとは限らないが。飛びは安定してきて、たぶん同じように投げれば同じところに行くのだが、この同じように投げるというのがとても難しい。主観的に同じだと思っていても精神的・肉体的には移ろう。目をつぶって入るようになれば最強ではないかと思わなくもない。投げ続けていると、こりゃあ入るなという感覚が稀にあって、そういうときはインブルに吸い込まれる。とかいって、まだアベレージ500越えいかない初心者の域なのだが、これも含めて楽しい。自分の体の動きが厳密に感じられる。

 

そこからお散歩。

紅葉を眺めながら、簡略的迷子になる。方向がだいたい分かるから、還れないのではないかというところまではいけない。これはこれで楽しいのだが。

 

その後はカレーを食べて運試し。チェーン店だが、カレーのご飯の粒がしっかりしていて気を遣っているのだろうな。美味しい。いきなり確変入ったから、イケるかと思ったらイケない。最後の最後にちれっと取り返したが遠征(厭世?)費用にはまだまだ足りない。

 

その後急いで日記体勢を整えようとしたが、もう良いかとなり寝た。

きちんと読んでますみたいな人が暗喩的にでも居れば気を遣って書いたかもしれないが、好きなように空けた。

 

 

本日はゆっくり昼過ぎまで寝た。時折起きてもぞもぞやら冷凍ご飯の消費やら洗濯やら、怠惰に休日を過ごす。起き抜けにお手洗いに行って水を流したら振動で電動カミソリが中に落ちて、衝撃でヘッド部分が外れたらしく、ヘッド部分が下水のかなたに流れてお行きになった。替え刃の土台と共にだから、買い替えるしかない。コンビニで買った予備のカミソリで剃ったら唇を切った。血が止まるまでマスクができない。

 

こんな雲行きが悪いのに運試しに行ったものだから、なかなか散々なことになった(楽しい)。初当たりは強いが確変には弱いのが常態なのに、初当たりが一向に来ない。運が深いところに埋まっている。最後はよく分からない甘い台で万発行きそうになったが、右打ちするときに玉が飛ばなくなってせっかくの当たりを逃す。

 

運の運用方法が確立されていないのは、学習ではどうにもならないところだろうな。個人的に人間の本質には学習できること(過去を元に未来を考えることができること)としているが、運ばっかりは未来にしかない。統計的に考えればあるのだろうが、具体的なその人の運となると、統計的に小数点以下でも当たるし、当人にとっては余り救いがない。

 

そうやって意気消沈ちっくで帰ってきたのだが、どうやら普通にご飯を作った。春菊の胡麻和え、豚肉とチンゲン菜と茄子のうどんスープポン酢炒め。自分が作ったご飯が生活ではちょうど良い。満月さんの料理は贅沢的に美味しい。そのうち日常になる模様。

 

そういえば、ここ2日、お風呂読書時間がいつも通り取れなかったから、簡略版にした。本当にいま読みたい本を厳選。文化人類学マルクスさんの論考、ショーペンハウアーさんの「知性について」、「簿記Ⅰ」、経営学の本、民法、刑法。小説枠が紫のスカートの女、「missing」、宗教のやつ、アンダーグラウンド、最後は西尾さん。

 

本と運試しは良く似ているという体感。

ドラッグというか、陶酔というか、別の世界に酔ってしまうところ。僕は宵に基本酔っぱらいだから酔うことに特に否定的感情はないし、特に別事ともしていないが、たぶん別事としているから趣味という概念があるのだろうな。

 

僕の辞書には努力は無いが、同じくらい趣味もない。味わいではなく現実外で遣うみたいな語用が無い。全部人生劇場の動きだし、そこにいちいち名前を付けるのは違うようなって。ちなみに「仕事」は物理学的な意味でのエネルギーの循環みたいな意味で遣っている。

 

言葉の定義はともかくとしてというか、定義より語感の方が大事よな。一般語用としてその言葉を扱っているのか、きちんと自分のものになっているのか。

 

最近「チ。」の無料部分を読み返して、この先も読まなきゃなとなる。

天動説から地動説に歴史的に転換するタイミングをテーマにしている。異教は焼いてしかるべきという考え方だから、宗教は日本において評判悪いが、異教を排除するって現代でも普通に行われているよな。信仰対象が神様ではないだけで。

 

トランスの逆の極致としての現実はどういうものなのかをマルクスさんが論考で語っている。貨幣は本来交換対象でないものを無理やり口づけさせるとか。愛は愛とだけしか交換できないし、人間も然り。現代の社会体制も一種の信仰体系なのだろうなと思う。何かと交換できる自分にしか価値が無いっておかしくないか。

 

僕はサイコパス傾向だが、社会における関係は蔑ろにはできない。

西尾さんの小説の主人公が無駄に相手に気遣って過剰な演技をするとか、無感覚故のサイコパスちっくで分かりみ。これもこれで生き残るための合理性。法は犯さない。

 

法と言えば、法律論。

刑法の本を読んで居て、犯罪における動機についての見解がちょっと更新された。

 

人って行動における理由を重視する傾向がある。これって個人から見ればその人が異質であるかどうかの判別になりそう。ただ、犯罪においてはもう少し細かくなってきて、犯罪行為がほんとうに違法だったのかを判別するためにある。抽象的なうらみつらみの動機は正当化されるべくないし違法な宗教感覚もそう。具体的に攻撃されているという認識の上の防衛行為は正当防衛になるし、具体的に加害されていたことは情状酌量になる。

 

という意味で、人は人の中身を知りたいのだろうな。

僕は基本的には現実に出てきたところしかしん酌をしてない。ただ、現実に出てきていない部分は誰しもあるし、具体的に接すればそういうところが読めるだろうなというだけ。

 

僕がどう読まれるのかも気になるところだが。

 

なんか強制終了。

 

おやすみなさい。

良い夢を。