しくみ

 

 

 

朝ごはんはホットサンドをいただく。基本的に朝ごはんは食べない。胃腸にも普通に休息時間が必要だとどこかで読んで採り入れている。日常だとコーヒーと水だけでお弁当まで持つ。ただ、休日例外。あんバタ―ホットサンドうまし。

 

満月さんが仕事に出かけてすぐに洗い物を終わらせる。個人的感覚だと洗い物を残しておくと次の料理の始まりが前の片付けから始まるのがスタートする前にクールダウンしているみたいで嫌だから料理しながら洗いたい人。大阪の部屋はお風呂溜めながらキッチン枠で水を流せないからやむを得ない。動線の終わりが空いてないと出発もできない。

 

これは駄目出しでもなく。満月さんが調理している横で洗い物すれば良いし、分担みたいな話でもない。どうせしないといけない家事作業に好き嫌いを言うのも何か違うような気がする。

 

僕の親世代の人は家族という結社単位は完全分業が多かったが、我が家は父親が農家で稼ぎが安定しておらず、公務員の母が大黒柱をしながら家事をするというあべこべな感じだったか分担して当たり前みたいな感覚がもともとインストールされていなかったのだな、たぶん。母親からは自分の部屋を片付けろみたいなことは言われていたが、洗濯物を干すとか洗い物をするとかは無かった。いや、お風呂掃除はあったか。

 

この違いって、おそらく自分のやり方と違うことされると気になるかどうかでは。お風呂掃除は水に流れるからやり方の型が残らないけど、洗濯物を取り入れるときに変な干し方されているとストレスになりうるし、洗い終わった食器をしまうときに置き方が気になるかもしれない。人に手伝って欲しいというの中には、手は借りたいけど自分が構築した仕組み通りに動いて欲しいというのがあるかもしれない。

 

これを私的領域における交換とか関係と思っている人は無茶振りが過ぎるような。

その仕組みって当人にとっては当たり前だけど、他の人からしたらブラックボックスだし、言語化して手順書を作ったとしても、行間には不文の判断があるし。

 

満月さんが今朝下着の干し方を教授してくれたが、特に不文はなくこう干せば伸びないというだけだった。こういう指示はすんなり入る。言葉だけ聞き取れば良い。まぁ実際どう干したところで特に気にしないだろうけども。

 

そうして、運試しで一頻り勝ってくる本日。

 

なんとかなる人生劇場の主人公補正が半端ない。これは別に自慢でもなく、基本的にそこまで生身で居ることに固執していないのになんとなく生身で継続できるようになっているというだけ。詳しくは書けない部分。

 

そういう意味ではほんとに危なかった時期を過ぎてしまうと、何があっても心理的には安全になっているのかも。僕が無理をしていたのはあくまで他者との人間関係におけるところであって、今は別に問題がない。人って他人に無理をさせてもあんまり何にも思わないのか。いやその頃の僕がそういう世界観の層で過ごしていただけなのか。

 

自分が更新されると登場してくる人が変わるってオカルトちっくだが、個人的には当たり前なのだなという感じがある。

 

 

無理といえば、並行読みもかつての僕では無理だった。マルチタスクではなく切り替え。ここの上限突破をしてくれた本の先生はもっとやばかったが、僕がその余地がないと受け入れらないから、もともとそういう風に世界を読んで居た説もある。本を早く読めたところでフレーズを吐き出すだけなら読んだことにはならないし。フレーズではなく味のこと。

 

柄谷さんが論ずる世界史の構造が面白過ぎる。

貨幣はもともと不文の信用の交換だった観念を現実に化体させたものなのだろうなと。これ自体は問題ない。現金戦闘力があればだいたいのことはできる。ただ、ここは安心になっても安全にはならない。信用って不安の解消を外から証拠付けるだけだから、お金がいくらあっても不安で危険ではある。名声を得た人が自己退場するのはきっとそういうメカニズム。俳優さんとか交換価値でしか感得されないとうんざりするのかもしれない。

 

交換価値があるという意味では、たしかに女性は物的な価値があるかもしれない。これが不遇だという説もあるが、でも、男性は交換すらされないのが当たり前だからそれはそれで不遇かもしれない。男女対立はどっちもどっちだと思う。

 

色んな対立って現実的物理的とかより言語観念的な対立な気がする。

 

これが貨幣と共時性があると考察していたのはかつての偉人たち。シュールレアリスムは、表現は交換価値がないと考察していた人物達なのではという異説が起こっている。

 

 

仕組みの話が美味しいということは、システム全般なんでも美味しいということ。

 

もうあんまり時間がないから断片。

 

言葉も仕組みなのだよな。例えば、月が綺麗ですねという言葉は単なる自然のスケッチに過ぎないけども、夏目漱石を知っている人に伝えると告白めいたものになる。僕としてはそういう前提を踏まえた上で一緒に月を眺める世界線は良いですよねという意味合いだが、これが通じることはあんまりない。

 

言葉による疎通と、貨幣による交換的世界観はとても近いと思っていたら、あえて言葉を交換しなくても一緒に居てくれる人が現れてしまった。

 

当たり前の世界では言いっぱなしにできる言葉より、行動を見た方が良い。

利害とは関係ないところで。とか言ったら。当人が利害関係ないところで何をしているかという自分が剥き出しになるからやばいのかもしれない。

 

まぁ、やばくても人を蔑ろにしなければそれで良いと思うけど。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。