のびのび

 

 

 

昨日の日記はぷりぷりしていたらしい。

 

仕事場のお手洗いで考えてみたのだが、おそらく自分が不便になったということではない。不便であることが分かっていればそれに合わせれば良いだけ。業者さんの職業倫理上おかしくないかという論理。でも、本日の感じだと職業倫理上下の階の水漏れの方が重いらしい。まだ漏れているのかな。

 

怒りとかの負とされる感情って理屈があるみたい。

場を弁えずに怒ることはできないし、怒って良い何かの理由がある時だけ怒ることができる。このブラックボックスに従わないといけないということもなさそう。

 

嬉しさに理屈があるのかというと、原因がありそうだが個人的には嬉しくなれる余白がある状態でないと無理だから無根拠で良さげ。感動なんて問答無用の無理屈だし。

 

まぁ感動されるということはそういうひな形が人格に形成されている訳で、どちらも自発的な動きではないとも言える。自発的でないものを自分で無いということもできない。こんなこと言い出すと自律神経系の働きで肉体が維持されている自分が自分で無くなる。

 

やれやれ。

 

満月さんとの楽しい通話を終えて寝た昨日。ぷりぷりがふつふつしていたらしく、憤怒氏がこういう人とはあんまり関わるなよという例示的人格を示してくる。指示とか指摘を事実として発する体で、相手の世界を閉じようとする語用をする人。そういう人と関わっていると、人格が自虐的ないし自縛的になる。モチーフが母親と姉という残酷さよ。

 

たしかに僕は最初の家族から離れた土地に来たことで羽が伸ばせた感覚があった。ホームシックとか全くないし、帰省して家のベッドで寝るとき、自分が箱に入ったノミみたいな感覚になる。そしてやたらと怠ける。眠くてしょうがない。箱に入れられたノミはもっと跳べていたのに、箱の天井にぶつからないように飛ぶようになって、箱から出されても飛ぶ高さが変わらないのだとか(by鉄拳チンミ)。

 

もっと羽は伸びていく気がする。

薄情だと思われても仕方ない。母親にはあんまり薄情さを感じられていない気もするが、なんじゃろうな。

 

ちょっと本日の日記に戻して。

 

肉体的には良く寝られていたらしく、昨日よりはいい感じ。雑談が良く聞こえる。

先生の指摘と指示は、相手の人格を傷つけないように配慮されている。ほんとは裏を読んでもっと研鑽しろよという裏メッセージもありそうだが、貴方が足りてないという言葉がない。ほんと凄い。感情の色があんまり付いてないからだろうか。

 

もう1人の同じ職分の女性上司もきっと別の方向性で凄い。

感情の色を付けるという無色性。割と内心は無表情で雑談している気がする。僕はほとんど構われなくなったのだが、これは雑談とかクッション言葉でケアしなくても問題ねぇなと捉えられている説が浮かぶ。嫌われていてなるべく話したくないということと結果的には同じなのだが、そもそも嫌われる程関わってないから、前者の方が有力っぽい。

 

ともあれ、僕が居なくなっても回るのは当たり前だから、僕はもっと羽が伸ばせる所に行くべき。

 

お昼ご飯。

 

昨日弁当を作れなかったから、オリジンに行ってみた。昼時が休憩のシフトだから大行列。ここまで並んでまでオリジン食べることを欲求していないなと並ぶのを止め、一服しに行く。喫煙スペースで吸おうとしたら、閉鎖されていた。たぶん年末年始の関係。閉鎖されていても吸っている人が居て、当たり前に吸ってしまった。吸い殻はコンビニの灰皿に捨てたのだが、喫煙スペースがあるから吸っているのではなくて、いつも吸っている場所で吸っているという惰性なのだろうか。

 

結局ダイエーでお弁当を買ってベンチで食べた。

スズメがサンバならず2羽やってきておこぼれを狙ってくる。靴の数センチまで寄って来て可愛らしい所作だが、欲しい時だけやってくる奴にはやらん。というか、鳥にアレルギーはないのだろうかと思索迷子になる。アレルギーで野垂れ退場しても施したことだけで満足できるのであれば良いのだろうが、野鳥の健康を考えると軽々に鶏卵そぼろとか与えられない。人間用のご飯を食べまくっていそうな鳩、烏は大丈夫かもしれないが、スズメはどうなのだろう。

 

 

会社の駅ビルの地下で食後の一服。電波が悪いからkindle読書をお供に。「私はお金に愛されている」、「ありがとう」で思考を満たせばお金持ちになるというとんでも本だが、なんとなく分からなくもない。枯渇しないものを拠り所にした方が良い。僕は「私は世界に愛されている」に言い換えるが。

 

この本もそうだし、スピリチュアル系の本でも原始仏教でもそう。

人には「いま」しかないという思想。過去があって現在があって未來があるというのも別に真実でもなくて、単なる常識だと思う。

 

「過去は変えられないけど未来は変えられる」みたいな前のめりの思想もある。僕も一瞬採り入れたことはあるが、いまはどっちも変えられるし、いますら可動可能という説。

 

過去に起こった物理的な事象は確かに変えようがない。ただ、人が過去としているのは物理的な事象の一部でしかなく、いまからの解釈でしかない。過去は今の状態によって解釈が変わるのだからそれほど確定された歴史でもない。未来は行動によって変わるが、どう変えたいかの出発点は今になるから、変えるべきは未来ではなく今である。

 

いや、人の人生劇場に口出すほどできた人格ではないから、好き好き生きればよろしい。

 

 

日記上も現実上も帰宅。

仕事終わった時間に業者さんから電話かかってきていて折り返したら、18時行きますって言いましたよねと言われる。いやいや、昨日のSMSでは明日の夕方としか書いてないし、僕が言ったのも仕事終わるのが18時ですと言っただけ。ぷりぷり案件だがスルーして、お買い物して急いで帰った。草(ベビーリーフ)を買い忘れる。

 

バルブを開けてはいおしまいかと思ったら、1回目にやってきた業者さんのボスと2人で待っていて、またトイレ周りを補修します。30分くらいですと言われる。まだ漏れているのかと思ったのがこの脈絡。

 

待ち時間で、ほんとうは日常タスクをこなしたかった。シャツにアイロンをかけるくらいはできるかなと思ったが、我が家は大人が1人しか通れないくらいの幅しかないからシャツを取りに行けない。

 

しょうがない。読書。

BGMとして、「コーキングできているし、問題なさそうだけどなぁ」みたいな迷走している相談が聞こえる。そこじゃないって最初から言っているのに話を聞いてもらっていない。

 

おあつらえ向きに、本日のお昼に補充した「暇と退屈の倫理学」。一目で買おうと思ったのだが抜けていて、昨日もう1回noteの記事で見つけた。

 

僕は暇だが退屈ではないなぁと思いながら読む。なるほど、退屈は苦しみで解消するという機構があるから、僕はここの機構から離れたのか。

 

最低限の衣食住が確保されている人の不幸は退屈だという話。

退屈論は色んな哲学者が書いているらしい。欲望の対象と原因のズレ。

 

ただ部屋に籠れない人が不幸を求めるのはなんとなく分かる。

僕のは運動だが刺激を求めていけば、尽きることがない。

 

毎日変り映えがないという思想もおかしい。毎日の中でほんとに全部把握できている人が居るとすれば、その人は神様くらい凄い。

 

まぁ何事も起こらないようにしたいのが無意識のメカニズムだとすると、人が昨日と今日の違いが暦でしか意識できないのも分かる。あくまで刺激は生活の外に置くという。

 

主観的には、何もしなかった1日でも退屈は無いからなぁ。

常識的な退屈時間が今度あったら主観的に中身を吟味しよう。

 

全然どうでも良いが、短歌の人が健在みたいで良かった。

鬱々してそうだが、公開できている時点でまぁ大丈夫だろうなって。

 

 

はい、おやすみなさい。

 

(今日は惚気ていないと満月さんに文句言われそう)

おやすみなさい。

 

良い夢を。