たおやか

 

 

本日書く体勢になるのがやたらと早いのだが何か抜かしているのか。

 

明日は弁当作らないからお刺身買ってきて料理は省略したが、副菜のキャベツのごま油塩昆布和えは作ったし、やっと回せた洗濯機で洗濯機も干したし、母親との通話もしたのに、いつもより30分以上早い。

 

お風呂読書も1冊1冊の文字数はいつもよりは多かったはずなのだが、さらさら読んでなおかつ残る。

 

そうして、この部屋の不便具合が増している。洗濯と洗い物とお風呂を溜めることが並行できない。他の水を全く使わなくてもお風呂もちろちろとしかたまらない。たまろうとするお湯はどんどん冷めていくし、お湯すら出なくなるのではないか冷や冷やしながら本を読む。いや、「冷」で繋げたかったから書いただけで、思考に不安は皆無。なんとでもなる精神。

 

 

さておき。

 

朝から順番に戻して。いやより錯綜して。

 

なかなかの安眠。ご飯をよそうから寝坊はしなかったが、あまりにゆっくりしていたら家から出て16分しかなくなった。普通に歩いて20分ちょいだから巻かないといけない。まぁまぁ走った。全然疲れない。帰ってから洗濯洗剤を買いにコンビニに文字通り走ったときも大丈夫。我ながら昔より体力あるのではないか。頭の中はもう全盛期には勝っていると勝手に思っている。まぁデータとして保存されている容量が違うから、勝負の土俵にも立てないのが自分との闘い。

 

お昼は光合成しながらお弁当を食べる。食前の1服は要らないなとなり直接公園に向かう。新居での暮らしの準備なのか。煙草はもっと贅沢に嗜好するもの。寒いのは寒いが、日なたであればそれ以上の熱エネルギーがある。

 

駅ビルの地下で食後の煙草。お供はコーヒーとkindle本。

お金が入って来るみたいな話を読み切った。これって昔の僕であれば何を言っているのだと突っぱねただろうが、今だとなんとなく分かる。求めるのではなく与えることから始まる。僕の文章も別に自分が書きたいことを書きたいという欲求はなく、どの時系列でも読者がいて、何かしらないがだいたいの人が興味深く読んでくれているらしい、では書くか。というところまで主観がなっていた訳でもない。主観は「書くことによって同類が見つかるのではないか」という欲求があるとしていた。

 

いまや僕は欲求とか理屈なく継続できる人格だし、仲間探しにもあくせくしていないのに書いている。

 

ついでに、これを書いたら変に捉えられないかという知見。

僕は、僕と同じ量の情報を摂取している人なら、当然同じような思想とか見解に至るという意味で、自分のは普通だとしていた。でも、同じく本好きな人でも自分に寄せた解釈しかしないし、経験値が他人を下に見るために使う道具だとする人を見かけるにつけ、なるほど、これは僕のオリジナルなのかとなった。オリジナルだということは相対ではなく絶対的だということであって、他人も絶対的に見えるしかない。

 

絶対的に人を見るって何ぞやというと、人を自己に寄せないということもあるし、人を既存の情報だけで判断しないということもある。過去情報の蓄積では現在以降の人は既定できない。だって自分がそうだから。

 

 

ところで、本好きな人がモーパッサンを読んだ記事が流れて来た。読書は内向的であって、現実逃避であるというフレーズにもやもやしている模様。僕としては書物と現実(きっと物理状況と社会事)を切り分ける意味が分からない。これって、現実では何か闘っていかないといけないという前提思想がある。感得する情報において物理・社会(現実)と、書物に軽重があるとも思えないのだけど。現実が重いとされているだけの話。

 

これを書くと、僕が現実できちんと生きていないから本の情報の方が重いとしているとされそうだが、一応恙なく社会人もやっているし、仕事の経験則も恙なく感得しているのであしからず。

 

でも、ごりごり現実を努力で開拓していくという陽キャ的精神は、「暇と退屈の倫理学」でいうところの、余地を埋めていかないと人生が充実しないという袋小路みたいで大丈夫かって思う。そういう人生劇場設定って、おそらく今の時代よりもっと前由来。社会革命が起こったときの若者は、ここから動けるから幸せだが、社会が円熟した時代に生きる若者は退屈で不幸だ、みたいな。

 

繰り返しが退屈だという概念は大分やばい。

これって、合法なギャンブル嗜好。

 

そもそも退屈って状況ではなくて状態だし。

目新しいものを散策していくのは良いけど、その目新しさが自分を更新しないものが刺激物なのだろうな。演劇とかライブとかでしか自分の羽が伸ばせない。ほんとに好きなのか刺激だから好きなのかは微妙な切り分けがありそうだけれども。

 

僕が行列を好まないのは、退屈だからではなく退屈に巻き込まれるのが嫌だから。

並んで待つなら他のことで動いてすいた時に行くで良い。

 

やれやれ。

 

そういえば、母親との通話の話。

明日荷物を送ると言われて明日以降大阪に居ないから調整的会話が起こる。そんなに鮮度が大事なら、満月さんに相談してこちらは冷凍もちをこちらの住所に送れば良いのじゃないかと了承を得る。

 

次の通話で、この話に持って行こうとしたら、家に居ないのはいつまでなのだ、だった帰って来たときに送るという方向になった。母親は若干ぷりぷりして、もっと早く連絡くれればよかったと僕の否にしたがる。たしかに僕が満月さんのところに年末年始で行くことは報告してなかったが、ほうれん草不足はお互い様。僕はお餅がやってこなくても新年あけますし。

 

そもそも、なんでぷりぷりしているのだろうという論理を考える。

これって、おそらく、自分が与えようとしていることを相手がストレートに受け取らないという齟齬。自分がわざわざ送ろうとしているのに、受け取ってくれない。

 

かなり語弊がありそうなのは自覚があるが、僕は別に物体にありがたみを感じていない。

これも語弊で、物体は関係外でも当たり前にあるし、足りない物なんてないという前提。

 

好意を相手が受け取らなかった事象に対するぷりぷり問題って、対象は相手じゃなくて自己なのだよな。要は好意の表現が現実を与えることだから、そこがちゃんと返ってこないともやもやする。母親は僕の事情は加味しておらず、僕という存在は荷物(好意)をちゃんと受け取るのが当たり前となっている。

 

もっと操縦して新居に送ってとなっても良かったが、なんだがぶちぶちしていたから止めた。次のステージはここを止めないこと。

 

僕は人を操縦するのは嫌だからほとんどやらないのだが、操縦の原因が僕に有利になるではないからもっとやっても良いのかもしれない。

 

人が身動きを自由にするためには努力は要らなくて、力を抜くことだとうのがお金のkindle本だが、人が努力を好いているのは、苦しみの系列なのだろうなと想う。努力している自分しか自分ではないって、最終的な清算で自分を生きて居なかったとなりそうだがという老婆心。

 

努力だと思っている時点で、何か不調和が起こっている。

もちろん、外には努力としか表現できない事態はあるから、あくまで内部の話。

 

明日からもっと楽しくなる年末年始。

抱負もないが、抱負がなくても都合良い自分で生きている。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。