不遜

 

 

タイムアタック的な毎日。いや好きでやっているから問題はない。東洋医学のカラー本で「気滞」に当たるらしく、気が溜まると不調になるから、動いておかないと(曲解)。

 

タイムアタック中にふとあえてまったりするのも良き。本日は帰宅してから15分ほど満月さんの修士論文を読んでいた。やっと読めてきた感じ。この話はまた後で。

 

 

さておき。

 

寒波の影響で滑りやすくなっていることを予測して、小走り区間がないように出発している。早咲きの梅らしき花の数がだんだんと増えるのを横目で10秒ほど眺める。いいこっちゃ。

 

仕事はそんなに忙しくないが、Excelを触るタイミングはなかった。日常に触るタイミングがあればもっと動かせるようにはなる。Excelが趣味の先生は日常のあらゆる物事を記録・集計・分析していたらしい。僕はまず数値として記録していくという感覚がないから無理。体感として自分の体の微差を捉えているから集計・分析しなくても無理はしない。

 

昼休みは電波が遮断された地下の喫煙室で「ガロア理論の風景」と貨幣についてのkindle本。どちらの学問分野も面白くなってきたのが最近で、つまらないのはそれを知らないからなのだろうなと思う。漫画も読んだ。

 

仕事の後半戦は資料整理をしているお洒落な先輩が中間スペースで作業するものだから、距離感が近くて気になった。ソーシャルディスタンスの心地良さに馴れすぎか。そういえば本日先生に聞きに行っていないからあんまり話していないな。

 

 

帰ってきて、タイムアタックを中断し、朝ふと頭をよぎった卵かけご飯を食べる。あぁ、食べながら修士論文を食べていた。僕も研究をするような大学院に行きたかったような気がした。試験勉強をするような場ではなく。まぁ、内部事情で言えば、単に就職活動をしたくないなぁと思ったらちょうど発足したところで、なんとなく入れたというだけであって、学問とか何かのテーマを研究することに面白さを感じていた訳ではない。論文を書かないと行けないと締め付けがあると上手く動けない可能性もあるが、今の方が当時のごりごり勉強していた時より学んでいる。

 

そうして晩御飯作り。鯖水煮缶、新玉ねぎ、新ごぼうを買ってきた。新玉ねぎはスライスしてオリーブオイル、クレイジーソルト、砂糖ひとつまみで漬ける。苦み辛みが美味い。鯖缶と新ごぼうは冷蔵庫の人参と白菜と合わせて煮物にした。ごま油で新ごぼうと人参を弱火で短く炒めて、水煮缶の汁を加えてもうしばらくというのが少しの工夫。新ごぼうってこんなに美味しかったっけ。

 

 

という感じで、いつもの思索タイム。

 

料理を作るときに聞くBGMを、たまたまYouTubeで流れてきたHSPのことを某メンタリストが語るといういつもと趣向を変えたものにした。

 

僕はHSP傾向にあるのかという命題はとてもいまや微妙なところ。ただ、自分のミスとかなんてことない人の振る舞いに必要以上にダメージを受けるとか、外界とか内観に過敏とか、そうなのかという感じではある。

 

まぁそういう風に括られたところで、僕は同じ性質を持った人を仲間とも思わない。ソシュールさんではないが、無限の非言語的な傾向を特徴で区切って名前を付けているだけの話。個人的にはこの性質を持っていることは人生劇場をより楽しむ余白があるとしているし、いまやもうそれほど不便ではない。

 

ちなみに、環境さえ整えば社会的に成功する性質であるという研究結果があるらしい。

良いことだけ考えれば良いというスピリチュアル系の考え方とも親和性がありそう。

 

この性質があるとしても、もはや利用する段階になっている。

 

外界に過敏なのは、外界が詳細に捉えられるというだけであって、それに付着する落ち込み傾向の体性感覚に従う必要もないし、ミスで落ち込むなら、ミスの定義を書き変えれば良いだけ。僕の仕事上の失敗の定義は、やらかしたとかではなく、相手の都合上手数を増やしてしまったとか、もう少し見えるべきだったよなという感じであって、自己のタスク上の失敗ではない。この職場で言えば、失敗しないように全部上司に確認するという所作自体が失敗だと思う。自分の仕事とできていない。察して何でも都合良く動くとかではなく、機械的に動くことを仕事とするのがおかしいという話。もちろん機械的に動かないといけない仕事もあるけど、それが仕事の定義になるのであれば仕事はAIに譲った方が良いような。

 

 

これと繋がる文学論。

 

満月さんの修士論文。詩とテクストのような話。詩はその中で空間を形成する、その空間の中に読者が参与する余白はあるのかということを「眼」として表現していると読んでいる。

 

昨日睦言を交わしている中、文学的議論になって、こりゃすぐ読み返されなければ、となる。議論って論破するものではなく、発展できるという持論ができる稀有な相手。

 

僕は詩については読者として新参者だが、詩こそテクストだという発言は目から鱗だった。余白がまだ一致できていない。そのうちできそうな気がしてくる。中江さんの詩はたしかに開いている。

 

普通に世界で生きるとき、閉じているテクストであれば読み手は責任を負わなくていいから楽。ただそれを消費すれば良い。あくまで外の世界として観測されるだけであって、当人の人生劇場に揺らぎが起こらない。

 

という感じが起こって、なるほど文学作品として村上春樹さんがあんまり賞を取れていないのがちょっと分かりみ。文学というより音楽とか絵画の領域っぽい。

 

閉じたテクストって、おそらく説明が1つに収束する。

例えば、孤独とか。

 

おそらく書くときにも閉じたように書こうとするのが現在の主流なのではとふと思ったが、書いているように読まれないことに不協和音を感じる人は、読みたいように読んでいる人だよな。

 

僕のテクストが開かれているのかというのは、読んでいる人に聞いてみるしかないが、聞く欲求もない。逢うことがあれば、そんなことよく覚えていますねと返すくらい。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

誰かの安眠剤になれますように。