ぴろーとーく

 

 

5時50分に起きて新幹線に乗って9時半に出勤。これにも若干馴れてきた。日常にするものではない(距離が長くなるほどリスクが増える)が、電車時間が増える日常はその分読書時間が増えるともいえる。座れる時間帯であれば。あと、人間が多いから情報量も多い。

 

 

お仕事。眠いのだがもう環世界のことだからそれほどエネルギーを使わない。環世界は語彙として微妙だから簡単に示すと、習慣ということ。習慣とは何ぞやというのは「暇と退屈の倫理学」が詳しい。僕もずっと想っていたことなのだが、要は考えなくて済む領域ということ。新しいことが起こって対処しないといけないのは上の方の人達で、下の歯車は条件のカタログと反応のカタログがほとんど決まっている。

 

人が習慣に安心するのは、そもそも人間は考えない方に生きるからというのが興味深い。考えることが必要になるのは、習慣に新しいことが不法侵入してきた時であって、ほんとはそんなに新しいことに触れたくないのが性だとか。たしかに新しいことって不安定だし、不用意に散策していたら落とし穴に当たって退場というリスクまである。目新しいことに触れるとエネルギーが消費されるし。なんとか障害の1部とかHSPの1部とかはこういう既知と未知を結び付けて習慣化するというのが脳的に不得手なのかもしれない。人とか公衆にエネルギーが奪われるのは、いつも新しいから脳が省エネできない。

 

ここを読んで想ったのがなるほど、だから「考える」という概念にはネガティブなニュアンスがあるのかということ。ここでは起こった現実への対処みたいな後付けが思考になっていて、こんな考え方はどうあっても後ろ向きになる。たしかにここだったらあれこれ考えるよりも、現実の体を動かして体験を積んだ方が処方箋にはなりそう。カントさんの純粋理性批判でいうところの分析的思考なのか。どれだけ考えたところで対象の枠を越えないから、枠を拡げる行為の方が役に立つ。

 

ただ、考えるってそんな効率的なところに留まっているものではないし、醍醐味はむしろこちら側にあると想う。対象から離れてしまうという意味では論理的ではないのだが、先とか底とかそれこそ後ろでも前でも良い、方向性がないのが考えるの本質。想像と呼ばれる領域かもしれないし、試行的とも言えそう。

 

文学でテクストが一義ではないという学問領域からの示唆でもある。

これを読む前にもずっと考えていた現実としてのテクストの解釈が一意に収束されるはずがなく、意味を決めるのは自己でしかなく客観的な正しさではない。

 

noteで流れてきた記事。電車で国語の教科書を読んでいる人が高尚だという話があった。本文しか載ってなくて答えがないから勉強にならんだろうという言。国語の勉強はここにはこんな意味があるみたいなことを教授された気がするが、その読み取り方が現実のテクストを読み取る役に立つはずがない。小説でこの単語にどういう意味があるのかみたいなことを選択させられるが、国語ができる人が人の言葉を作者が発したように読み取れるとは限らないし。

 

感情的な言葉とか、強い言葉を発する人ってほんとうに感情が高ぶっているのか、それを訴えたいのかって正味なところ分からない。憤った感情がコロッと次の日には穏やかになったり優しくなったりするし、これってそういう表現法を習ってきた習慣な気がする。

 

という感じで、現在地だと、怒る人って弱っているのだろうなという解釈がある。疎通の手段がそこにしかなく癇癪起こせば世界が変わるという無意識があるのだろうなって。昔の母親もかなり余裕がなかったら家族に当たり散らしていた。人の感情に馴れていなかった当時は天災でしかなかったが、だったら僕も怒って良いとはならない。怒りって疎通の手段として最大の悪手だし、相手にとって自分が下になるということを認める所作。怒号って不協和音だから嫌だけど、相手の気分の話だし、怒らせないようにしようではなく、くわばらくわばらで距離を置くということになる。機嫌でしか表現されないのだったら、そのうち過ぎるよなって。

 

満月さんが僕に対して怒らなくなったのは僕が満月さんを弱らせるようなことをしていないからだと思われる。別にコントールしているということでもなく、僕も弱っていないというだけ。ちょうど良い。言語疎通がてきとーに過ぎることを諦められていて、僕もこの人の言語と本心がずれている時はあるなという観測。友人家族との邂逅でやたらと弄られているというテクストだったが、実は最大限の気遣いだったという。僕は発話で馴染むより聞いて馴染むからあんまりスポットライトを浴びさせられなくても良いのだが、頑張ってくれた模様。可愛らしいこと。まだまだ愛でさせていただく。

 

お仕事と絡めて、発話の人格性の話。

僕が面白いなと思う人って、言語に依存していない人なのかもしれない。先生が定義を大事にするのは、人が自然に遣う言語が曖昧で主観的だから一意に均しましょうということであって、日常の表現の曖昧さを否定している訳ではない。ここを誤解した新人さん達は先生だったら日常言語の曖昧さを先生だったら解釈してくれるわって丸投げしまくっているのだが、それは仕事ではないような気がする。有能な新人さんだけそこが違う。美人だから贔屓している訳でもない。上司の上司も仕事的にこの人を評価していたし。

 

こういう言葉の曖昧性を「戯れ」と表現した文学者は秀逸。言語って規則があるし、誰かに何かを話す為には手順が必須。なのに手順を壊しても言葉は通じる。詩とか小説とか、単なる中身の吐露でしかない日記とか。

 

言葉が自分と癒着しているという感覚も集合的無意識の一部なのかも。

癒着していない言葉ばっかり使うのに、いざとなれば自分と言葉が一致しているという感覚は面白い。個人的には言葉って存在から漏れ出しているだけで一意ではないし、一意にしようとするのはなんだか歪みそうという感じ。

 

はい、ここまで。

布団に倒れ込んだらすぐ寝られそう。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。