分業

 

 

 

罪悪感を味わってリニューアルする1日。

 

社会的な真面目さがきちんとインストールされている。社会的な美点ではあるが、悪いなぁという感覚が強すぎる。社会的な規範って破るのが悪いから守るのではなく、社会のルールを破ると自分が不利になるという合理的な天秤で守るべきものだと思われる。

 

背徳感は味わいたくないが、そもそも背徳であるという感覚自体がおかしいような。

 

規範意識が強すぎるから、法律学で社会的ルールが特に自明でも自然でもないという意識を浸透させる意図があったのかもしれないとふと想った。僕はこれをしたら有利という感覚があまりに薄くて、自分を守る術がなかったのだろうなと。ここを瓦解する方向性は有効性でも合理性でもなく「遊び」なのだろう。遊戯の意味での遊びはルールを離れては在り得ないし、社会で遊ぶためには社会を蔑ろにはできなくて、粗探しをしている場合ではない。そこに生きる上で観察とか考察は有用だが、駄目出しばかりするのは違う。そんなことではどこに行っても駄目出しをすることで自己が定義されることになる。

 

 

なんの話を書いているのだろう。

僕は自己を定義することに特に意味を置かないから、言葉を書いていても自分が表現されているという感じ。言葉での表現は確かに物として貴重で希少だが、意味するものという固定化は否めない。特に固定しなくても自分は感触として在るし、本質は言葉では顕われないという説。

 

 

さておき。

 

既に忘れらているだろうなと思っている人からの反応はなかなかびっくりする。この体感は、最も長く過ごした(満月さんによって更新される予定だから二番目になるのか)、恋人さんと1度目に別れて、たまたま再会した時に「忘れられたと思っていた」と言われたこと。寧ろ僕がその人から忘れられていると思っていた。

 

忘れるって時の経過で削ぎ落ちていく記憶というのが一般論だが、人の中には時間が経過しない記録部分があると思っている。厳密に言えばそこは記録ではなく博物館みたいな場所であって、歴史ではあっても記録ではない。僕はこういう意味ではコレクターだから、記録力とは別のところで、いろんな人が居残っている。日雇い派遣で何回か一緒に仕事した人達とか。あの時代、色んな人がおったな。来年はもう来るなって言ってくれたベルトコンベア作業の強面の女性上司とか。息子さんを亡くして僕と重ねているのではという雑談もあったか。

 

宵顔さんがスキしてくれたのは、おそらく酔い任せだと思っている。

僕の文章をまだ読んでいるとは想っていなかった。とっくに忘れているとばかり。

 

 

という感じで、とっくに忘れているも含め僕が誰かの中に居残っているという現象って面白いよなって。面白いというか、凄いこと。自己を定義していると、相手の記憶にある像と自己像の不一致に不協和音があるかもしれない。暗記量が多いと自分に価値があるとしてまうとか。

 

僕の事務情報を覚えられていたところであんまりピンと来ないのだが、僕のことが残っている人が居れば、老後とかに同窓会めいたものを開催しても面白いかも。

 

僕の文章が純粋に面白いというのは、僕の人格が残っているより確率は低そう。

いや、奇特な人は歓迎だから読みたければいくらでも読んでいただいて問題ない。嬉しい。ふひひ。

 

この関係性は、交換でもない。

金銭価値がないものを交換なんてできないし。金銭価値を付ければ分かり易いのだが、この分かり易さに人の存在は還元できない。

 

「逃げ恥」で、やりがい搾取とか、好きの搾取みたいな話がある。

これって、みくり氏は世界を交換的に捉えている。これはみくり氏個人の問題ではなく、ある意味柄谷さんが考察した社会の構造の話。

 

システム的に、現代は資本主義社会で、貨幣を通してあらゆるものが交換できるような気分になっている。日本は一貫した思想みたいなものはないから、気分によって世界が変わる説。

 

何かをしたら何かが返ってくるという規範は、労働と賃金だけではなく、贈与には好感が返って来るという不文律のルールでもある。贈与は戦争だという部族争いの社会が記述されていて、なかなかリアリティ。相手に返せないような価値の物を贈ることで非暴力の戦争に勝つという話。

 

国家のシステムも税金によって搾取されている訳ではなく、安全と安心という対価がある。僕が保険に入れないのはこういう対価関係がなんともなぁという感じだから。安泰はお金では買えなくて、自己でなんとかする領域。

 

僕は人に対しては特に何か返さなねばという観念はない。何かしたとしても、相手がやりたかったと意志したからという話。これはもちろん等価で、僕が誰かに何かをしたことに対して返って来ることも求めていない。満月さんはこの意味でとても丁度いい。お互いが料理を作るし、洗濯物も干すし、特にシステム的に分担しなくても天秤のバランスが取れている感じ。

 

贈与が本来の贈与であるためには、お互いが贈与と認識しないことを要するって誰かが考察していたのだが、たしかにそうだな。プレゼントってあげる方も貰う方も、身構えてしまう。この身構えが関係における緊張感であって、お互いが与え合うという自然な互酬が起こらない。交換的な言葉だと、貴方がやってくれるからこれをするみたいな語用になるが、本来は、自分がしたいからそれをするという一人称で良い。

 

相手が居れば日常が一人称ではなくなるけども、その中でも遊ばないと人生劇場を愉しめないような。

 

早起きしないと仕事に間に合わないからここまで。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢。