雪化粧

 

 

セロリが食べたい舌になりながらスーパーに行くと広告の品だった。ツナ缶と組み合わせてマリネにする。これを運が良いという非日常にするのではなく、当たり前として享受すれば良いのではと気分。非日常でなくても、当たり前に対してだって感謝はいつでもできる。

 

当たり前に快適になっているという一般的な状況に対する感謝ではなく、具体的な人生劇場における当たり前に対して。自分の舞台にもたらされない当たり前にいくら感謝しようとも全然繋がってないような。こういうのって押し付けだよな。例えば退場したい人に、他には明日を生きたくても退場してしまった人が居るみたいなやつ。こういうこと言って何か言った気になる人ってあんまり美味しくない。そんな一般論を語るより具体的な相手に寄り添えばって。

 

冷蔵庫に常備されていると思っていた当たり前の卵がなかったもので、マリネの外に副菜をもう一品作ることになった。えのきが残っていたから、バターを載せてレンチンして、白だしと醤油を垂らす。ここにあるはずの七味唐辛子を塗せばイメージ通りだったのだが、何故か見当たらない。そこで豆板醤で代用した。不思議な味だがイメージとは近め。

 

意識しなくても恙ないというのを当たり前と呼ぶのかもしれない。思想にせよ視界にせよなんにせよ。ただ。意識を省エネするのはなんだか勿体ないというか、人生劇場の無駄遣いな気もしないでもない。

 

 

さておき。

 

6時に起きて新幹線で移動して10時に出勤。電車内では一切座れなかったが、雪景色が綺麗だったから問題ない。滋賀は豪雪、京都も積雪、大阪はからっとしている。帰りに雪がちらついていたから、なかなか寒いのだろうな。小走りで帰ったから寒いと意識される前に家に着く。

 

どうでも良い話。

 

出勤中の信号がない交差点。向こう側で自転車にまたがって止まっている男性が、こちら側に飛んで来た何かの用紙を注視している。籠から落ちたのかなと想像する前に、あぁ大事な何かを落としてしまったのだろうなって、風に更に移動させられる前に拾って渡した。こういう何の対価も生まれない行為と感謝の交換は好きだから特に何も気にならない。むしろ僕の他己評価が上がりかねないという事態の時の方が逡巡してしまう。良い人と見られたいという動機によってしている訳でもないのに勝手に良い人になってしまう。この評価自体は良いのかもしれないが、僕の人格像がこういう風に形成されるとそれが当たり前になって、いつでも良い人みたいな奉仕の人になって動きづらくなるということ。

 

僕としては、なんか現実に困っている人が居て、僕には余力がある。しかも手が届く。じゃあそれをできるなという感じでしかなく、ノルウェイの森の永沢さんみたいに紳士たるべきみたいな前もって規範がある訳でもないし、情けは人の為ならずみたいな不純な動機でもない。不純というと言い過ぎだが、善人たるべしという規範で動いている人はおせっかいになりがちでもありそうなというだけ。

 

あと気になったのが、実際に用紙が落ちた現実を見ていないのに、この人が落としたのだろうなという過去を補充するってどういったメカニズムなのだろうなというところ。逃げ恥の最終回でチラシを拾った叔母の部下の下りを見たから拾ったというのもありそう。経験則であれば落ちている用紙を見ている人が持ち主とは限らないし、特に観察もできない一瞬の交わりだから、直感しか指針にならない。渡した後に当人の自転車のかごに同じような紙の束があることが見えた。

 

直感は大事、ただ、有用不要みたいな指針だとありのままに捉えられないのかもしれない。

 

 

仕事。

 

特に何も言われない。信頼と実績の硯。そんなことより職場の人が何人か髪を刈っていたのが面白かった。年下上司もいつもより切っているように見えたし、有能(で美人)な新人さんが逃げ恥のみくりくらい刈っている。もちろん満月さんのショートカットも可愛い。前髪が跳ねていたのも。

 

やっぱり3日空くと、というか、本質的に人と会話するのが苦手なのだろうなと思う。ここには仕事上のトークも含む。できるのだが、できれば避けたいという気分が醸される。ほんとの自分を語りたいみたいな欲望はない。ただ、定型文とか出来事ベースしか話題にならないのは、浅瀬でばしゃばしゃしている様でもどかしくて。

 

この職場もあと1ヶ月ちょい。

仕事外の僕まで気になる越境する人は居なさそうだから、ここまで。僕も特に気になる人は居ない。僕の気になりは特殊で、この人が書いた文章読んでみたいなと想う人が気になる人。SNSはここがダイレクトだから楽しい。こっちになると、現実で逢ってみたいと想える人が気になる人という方向が逆転する。何の意図も効用も欲望もない人と逢う時間はだいたいの人にはなさそう。

 

 

 

やれやれ。

 

ちょっとだけ逃げ恥考察をしておこうか。

 

満月さんはガッキーが演じるみくりさんが好きではない模様。僕もどれだけ美人だとしても無理ではある。おこがましい話だが、仮に1晩過ごすことを欲されても無理。美人だったら許されるみたいなスポイルされた世界観の人と合う人は世界を記号として纏える人。装飾品って記号だなとふと思った最近。個人的には爪を塗っている人とか、耳に穴があいている人とかフェチなのだが、このフェチっておそらく見てくれがどうのというより記号性なのだろうなって。記号によって自己が改変されるという危うさに対するフェチシズム

 

言葉だって記号の極致みたいな側面があるし、理論武装して自分を守る人ほど中身は柔い。

 

 

なんだかそれたが、逃げ恥の構造論。

ひらまささんは絶対的な自己評価が底辺でみくりさんは相対的な底辺だから、なんとなく最初からズレている。

 

偽装結婚を提案したのはみくりさんだし、それを踏まえてひらまさんは契約を更改するくらいの余力がある。で、みくりさんは自分の価値を仕事における対価(賃金)に置きながら、感情論という非金銭のダブルスタンダードをひらまささんに強いる。

 

まぁ、非金銭的なものを金銭として交換できるようにするというのは普通の事。マッチングアプリで相手の年収でソートするとかはまだ良いとして、この社会、命だって金銭に換算される。人身事故で相手を退場させてしまったらその人がそこからいくら稼げたかで賠償責任を負う。これはあくまでそこでしか換算できないという社会的な妥協でしかないのに、人の価値はそういうものだという思想が浸透してそう。

 

交換の観念は社会に生きる上で必須だと思う。

ただ、ひらまさんは交換の価値から離れたのに、みくりさんはテレビスペシャルまでは慣れていなさそう。これが当たり前のパートナー関係だというのであれば、なんか変だなという次第。

 

満月さんはお月様の日が重くて僕を迎えに来られなかったしご飯を作るという予定も無くなった。これに対してほんとに何も思わない。感謝はするし、期待が予定調和になるのが当たり前って、相手のことを機械みたいな都合の良い存在としか捉えていないような。

 

自分の不調を相手に謝らないといけないってお仕事だから、満月さんに謝るのを禁止としようかな。動けないんだったら僕が動くから気にせずごろごろすべしって。

 

これって、相手からそういう風に認識されるという天災ではなくて、自分がそういう風に世界を意識しているから世界からそう捉えられるという人災な気がする。

 

ひらまささんとみくりさんの間には子供が生まれたからハッピーエンドみたいになっているが、みくりさんの世界認識が更新されない限り、熟年離婚の未来がありそう。出来事によって関係が維持されているような。

 

知らんけど。

 

ここまで。

文章が捗らない方が人生を充実させているという説もありそうだが、書けば書くほど劇場は鮮明になる。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。