なんとなく

 

 

魔女が出てくる童話のような夢からスタート。魔女はおそらく年末年始でFF8の考察動画を見たから。リノア=アルティミシア説って夢がある。ドラクエ7のキーファ=オルゴデミーラ説も。FF8はまぁまぁちまちまやり込んだが、ゲーム性をやり込んだだけで、物語のしていなかった。魔法のハインの存在も考察動画見てそんなの居たっけとなったし。

 

あの時代って意図ではなく容量的に削らないといけない部分があっただろうから、色々面白い。欠けた部分を想像(創造)で埋められるのが人間。

 

あるところに魔法で鍋を手っ取り早く作る魔女が住んでいた。何の苦も無く自分の為に作る。近くの村人は催し事の際、とてもしんどそうに、それでも楽しそうに鍋を作っている。これを見た魔女は悪い奴だから、楽しそうなのを排除してやれと鍋を振る舞うことにする。そうすると、魔法では決して得られない、「感謝」というエネルギーが生産されることになったというお話。

 

なんで鍋なのかというのは、この前豆乳豆板醤鍋を特に苦も無く満月さんに振る舞ったからだろうな。これがお金とか才能とかだったらもっと寓話的になりそう。

 

感謝が気持ちを軽くするとか波動が上昇するってスピリチュアル的には語られるが、そりゃ当たり前だという感じ。何も媒介にしない意図なき感謝はとても気持ちが良い。

 

 

さておき。

 

普段の遅番であればあと3時間は寝られるくらいの早起き。休日の満月さんも起きてくれて、最寄駅まで運んでもらう。フロントガラスが凍結していてあと5分寝ていたら間に合わなかった。あと5分を窘めてくれた満月さんに感謝。

 

 

そうして鈍行から新幹線から乗り換え4回。早朝でも動いている人が居るから電車が動いているのは当たり前だが、なんか割り込んだみたいで面白い。

 

いつもより睡眠時間が短いから、名古屋新大阪間のもっとも長い乗車時間でうとうとしようと思ったのだが、景色が神々しくて許してくれなかった。標高の違いだけでなく、標高が変わらなくてもエリアによって雪が積もっているかどうかが違うのが楽しい。遠くを見れば雲間が宗教画みたいに光を差して居て、全然寝てられない。

 

景色に反応できるのは元気な証左。

雪景色が好きなのは、原風景もあるかもしれないが、コントールできない自然が好きなのかもしれない。

 

文章と同じく早足でヤフー路線の乗り換え情報より一本早い地下鉄に乗って帰る。通常時では食べない朝ごはん。なんだか動いて空腹を感じたからコンビニで豚汁と梅干しおにぎりを買う。到着したら、このシフトで起きる時間より10分前くらいだった。

 

これから仕事なのかーという残念味もなく、通常なら前日にやっているアイロンがけを当日にしてゆっくりご飯も食べて、徒歩出勤。まだ早歩きできる。こういうときは疲れないといけないとか眠くならなきゃいけないというのも、慢性的でない限りは惰性というかフィクション上の規則っぽい。

 

まぁ、規則は迷子にならない為には大事。

僕は迷子になってもなんとなるという精神性なもんで、惑わずいや、惑えという感じだが、

 

とはいえ、仕事上は皆規則を慮っているし、ガイドを求めているからきちんと案内する。もっと高度なコレを仕事にしても良いのかなという気分。僕が自己の能力に対しては不安がないのは、「不安」という文字を自己辞典から削除したというのもあるが、何かここで良いという到達点を設定していないから。

 

社会人になっても本を読んで知識を食べ続ける人は、知識同士が繋がるときのシナプス脳汁全開になる薬物中毒者のようなものだとうつぶやきを紹介された。たしかにそういう方向はあるが、なんというか、ここでいう「中毒」って不健康ではなく不健全のニュアンスであって、あんまり知らない方が良いっていう社会的な規則がインストールされているのだろうな。

 

個人的な話、本日久々にがっつりお風呂読書をして、書くことが運動ということと同列に、文字を読むことも運動だと思った。眼球を動かす筋肉も運くし、脳内でもいちいち文字からイメージを投射していかないといけない。昔の知人は小説を読むときに文字しか追ってないと言っていたが、主観的にそう観測されたとしても無意識は意味を構築する運動をしているはず。だって、無意識は無意味な事象を再現するようなコストを割くようなアスリートではない。意味があるから意識に上がってくるのが普通。

 

運動不足でも生きること自体には支障がないから、読書が趣味とできる人は日常の無意識的動作と切り離した読書生活があるのだろうな。個人的には人生劇場は区分されるような場であることに疑問を感じてきたから、呼び名がまた変わるかもしれない。

 

 

運動というか、自己規則の更新というか、清々しくなった現実のワンシーン。

僕はあんまり自己情報を開示しないという性質があったのだが、本日たまたま流れで女性上司から雑談を振られた時に、なんだかどうでも良くっなって、彼女が居るということを公開した。

 

従来の僕だったら、ややこしい規則があって、あんまり相手の世界観を壊しそうな自己情報は相手に伝えないという。あんまり他人の中に存在したくない説。

 

でもこの上司は僕の情報をきちんと固有にインプットしているらしく、引きこもりじゃない情報初めてよね、と、鋭いことを言ってくるものだから、まぁ良いかって、ほとんど開示した。鋭い人は好き。

 

開示をやってみたら別に問題ないという世界観は去年くらいまでの自分にはなかった境地。

具体的な誰かによって救われるという意味合いではなく、僕は外でも僕であって良かろうなという次第。

 

情報が更新されたところで、僕と私生活で接していない人、なんなら接している人だとしても特に問題がない模様。

 

自分の評価が気になるという意味では、同じようで全然違う所で規則があった。

もちろん、この規則は社会生活上では必須なことだが、そんな当たり前は当たり前に習得できているから問題ない。

 

僕はもっと社会規則上のヤバイ奴という存在を公開しても良かろう。

通じないのは当たり前だが、他人を蔑ろにするような規範で生きていないし。

 

要は、書くことも読むこともあるコールを摂取することも、全然自分から逃げていないし迷子しているだけ。

 

今後の方針として、小説を書いてみるというのがある。

 

緻密にメッセージを言語化するのは無理だが、なんとなく創作するで良いような気もする。

 

誰にも読まれなくても良い物語。

書いたとしたら、恥ずかしいから有料にする可能性もある。

 

はい、ここまで。

 

自由ではなくフリーであれますように。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。