ひと

 

 

エンドレス「逃げ恥」から始まる濃厚な1日。

 

1周目はお風呂読書に入って歯抜けだった2話の途中を見た。ベッドが狭くて2人で寝ている気配がないからきちんと結婚しているのかが怪しいという推察する沼田さんは、内に外と一致する確証がないから外にそれを求めるのかもしれない。

 

その後はコーヒー豆屋さん。本格的なお店に初めて行った。店に入る前から濃密なコーヒーの匂い。注文したら専用の煎り機でごろごろしてくれる。下からガス火で加熱しながらぐるぐる回る。待ち時間にサービスで出てくるコーヒーの量がサービスのそれではない。さらに無茶苦茶美味しい。店の空気感だけで一杯の美味しいコーヒーを飲んだ気分になれる。

 

「無駄」という言葉にネガティブなイメージがある人に対しては心象悪いと思うが、無駄をここまで追求してくれた人類に感謝したい。コーヒーももちろん、煙草だってそうだが、時間を消費して何も生産しない時間というのはとても人間的。この無駄さこそ人間たる所以だろうなと。他の動物にも無駄行為はできるが、それを無駄だと認識しながらできる生物はあんまり居なさそう。

 

「暇と退屈の倫理学」もそろそろ終盤。第一形式の退屈は、電車が来るのを待つというとらわれで、第二形式の退屈はパーティに参加して楽しんでいるのになんとなく退屈、第三形式の退屈は意志決定に自己の意志にとらわれる。簡略化し過ぎだが、生産性とか社会的意義と連動しない無駄に意味が無かったのであれば、こんなに美味しいコーヒーが飲めることはなかったし、美味しい演劇やら小説もない。詩が美味しくなるのはもうちょっとか。

 

という感じで、著者さんが第二形式の退屈こそが人間なのだという意味が分かってきた。何かをしているときにそれが無駄かどうかで評価するのがそれこそ無駄なことで、もっと遊べば良い。幸せの定義は本人が幸福だと感じている状態みたいな言葉遊びと同じこと。

 

コーヒーも煙草も時間を人生劇場から切り取って嗜む所作であって、成分とは別に依存性がある気がする。これを依存というのかは微妙だが、メインとサブが逆転すると依存認定になるということなのか。ただ、このメイン世界観もだいたい曲者な気がする。自分の当たり前でも他人の当たり前でもない、ふわふわした当たり前に振り回されているような。

 

 

2人で一頻り運試しで負けた後、満月さんの知人家族と会食。良い雰囲気の人達だったが、如何せん空気感がもはや固まっているからそこに参入するのはなかなか難しい。満月さんが無理して僕を会話に入れるように促してくれていたが、一問一答の発話はあんまりできないから、無駄骨だったかもしれない。ただ、自然に流れなかったからといって、「満月さんに「アイツ話が通じないから止めといた方が良いのでは」、と言うような人達ではなさそうと本能が察知したのか、ポンコツのままでやり過ごしてしまった。

 

当たり障りがないようにやり過ごしたくなるようにした感じも一瞬あったような気がするが、終わった後に疲れていないということはそういうこと。満月さんの知人さん3人会ったが、疲れるような人が居ない模様。相手をどうでも良いと思っているのではなくナチュラルに捉えられる人でないと、満月さんと永く交流できないということなのかも。

 

僕は1回目を様子見するポンコツだが、2回目以降はまぁまぁいけるから次からもう少し発話をするかもしれない。発話しか証左にならない関係は永く続かない気もするから、第一印象から好印象。昔の僕であれば、弄られてしんどいとなりそうだったが、弄られている訳でもなかったと解釈できる。

 

 

やれやれ。

 

人がなにをもって人をを認識するのかというのは一生の哲学かもしれない。

 

もちろん表層界では、清潔感とか表情とか会話とか世界観が通じるとか色々テクニック的なところはあるが、僕はあんまりここではない気がしている。僕の都合は1人でできるから足りないところを補充してくれる人が印象が重くなるということはないし、学術的な畑が違っても疎通はできるし、結局は、自分と無関係で無駄である相手の世界と疎通できるような余白がある人が好きなのかも。

 

文章界ではそういう人しか僕の文章を読み続けられないような。

 

ほんと、楽しい人生劇場だ。

食べつくそう。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。