つごう

 

 

 

継続のために必要なのは意志のような精神論ではなく環境である。環境は意志によって自発的に造ることができるため、結局は意志であるということにもなりうるが、環境自体には特に継続がなく、あるとすれば時機のみとなる。

 

僕がこうなった理由は基本的には環境によるのだろうな。文章はたまたまSNSで書いた日記が人に読まれて良い風に観測されたというところからだと思われる。僕の文体が存在できたのはここからだが、そのうちもともと誰かに読まれるために書いていないというか、特に相補性はないよなというところから、コミュニティ系のSNSではなく書くことで存在している場所で棲息することになった。ちなみに自分の文章が特に上手だとは思っていない。上手いかどうかは特に問題としていないから。上手さってたぶん多くの人に読まれる結果ないし見込みくらいの水物なのかなと。意味が伝わるという意味合いだと隅から隅まで言語化された仕様書のようになるが、そんな文章誰にも読まれない。

 

引っ越しの箱詰めはプロが認めてくれたからこっちの方が上手いかもしれない。料理も満月さんが美味しいと言ってくれるから上手だと言える。要は、上手さはあくまで相対でしかない。本日のご飯は焼うどん、トマト(おつとめ品)の塩昆布和えとサラダと蕪の浅漬け。生活料理に対してはなるべく安上がりで美味しくという感じ。生活外のご飯に対しては気にしない。この自炊は作らねばという意志ではなく、作らざるを得なかった極貧時代という環境がある。その環境の中でも楽しんでいたから試行錯誤ができた。いまは2人用の料理の試行錯誤を楽しんでいる。

 

でも、他人が同じようにすべきみたいなことは全く思わない。これは自分がするように他人はできないという意味と、他人がするように自分ができないということが分かっているのと。基本的に不器用で雑でてきとーだからやっとここまできたかくらいにしか思わない。丁寧にするところはできるようになったというくらい。だから仕事中にお花を摘みに行く同期が椅子を仕舞わずに出しっぱなしにしていることが気になる。良い人なのだろうけど、なるほどとも思う。

 

かといって、気になるところを直せば良いとも思わない。それが生き様なのだから好きにしたら良いという立場。僕が同期の上司だったとしても優先順位は仕事の円滑であって、人格的な領域に踏み込むのはタブー。仕事の円滑の領域の遅刻常習犯だったら言わざると得ないが、そこまで社会生活ができない人でもないし。社会時間に合わすのが人格と連動している訳でもない。

 

たぶんかつての僕だったら、自分の効率に合わせて欲しいとなっていた話。これは相手の世界に合わせて来たからと両義。満月さんは食べた器とか飲んだコップとかを置きっぱなしにする。これは洗ってくれる人が居るかどうかとは無関係だから生活スタイルなのだと思われる。別に良し悪しではないから指摘もしないのだけど、流しで水に浸けておかないと実際洗う生活時間が増えることになって、自炊の意志が減退するに違いない。

 

僕がシンクを空っぽにしておきたいのは、料理の初めが洗い物だと萎えるなというだけ。別にそこに合わせて貰わなくても良い。満月さんは生活において仕事が重いからしていないだけで、やろうとすればできる人だし、僕がずっと一方的にご飯を作る生活にはなりえない、はず。

 

僕って結構相手にとって都合良い存在として生きられる。意志というか自我を特に問題としていないから、自分ができることは自分がすりゃあいいよなって。この境地になったのは最近で、昔は相手の世界観に調律していた。しんどい人に対しては自分がしんどくならないととか。他人との関係って自分の世界の事なのだから、他人事にできない。

 

満月さんはなんで今までの恋人さんと長く過ごせなかったのかと疑問なようだが、僕は自分が相手にとって都合が良いだけなのが気に食わなかったのかもしれない。理想からずれたら一瞬で冷められてきた。生活条件としてもなかなか何を重視するかによって彩がプリズム。聡明とかイケメンみたいなことはできるが、そんな条件で選ばれても困る。

 

 

やれやれ。

 

村上さんの新刊を読み終えたから、昨夜さんの感想文を読んだ。流石の文学畑という感じだが、文章があとがきに寄せられていないかという感じ。感想文の枠というのは確かにあって、何を読んだかを紹介する文章なのだが、実際読んだ人にとって、ストーリーの中の筋部分が多いと引っかかってしまう。いやもう読んだけどって。

 

クレームを付けている訳ではない。なんか他に作品から外に離れる印象があるのではというだけ。この印象を求めていなければ、人格が確立したイイオトナが小説を趣味するはずがない。印象要らずで需要するだけのコンテンツが世の中に溢れているし。

 

 

僕が読んで感じた印象は、この小説、村上さん以外が出版社に持ち込んで独立した作品として書籍化するのは難しいだろうなという感じ。物語として知り切れトンボだし、村上スタイルが世の中に浸透していないとたぶん読まれない。処女作の「風の歌を聞け」も大御所さん達から批判が多かったと聞いたことがあるし。

 

文学批評とは関係ない印象がもう1つ。人の人生劇場のスタイルって言語化できる習慣よりもっと無意識の領域で確立されているのだろうなというところ。

 

言語で意識化できるのは氷山の一角でしかないというのを表現しているのが村上さんで、現実的にも僕がいちいち行動を意志して決めている訳でもないし、きっとどんな人もそれぞれそういう劇場で過ごしているのだろうなって。

 

これは巷の標語の「人それぞれ」とは違う。この文脈ってあくまで当人の人生劇場で認識できるそれぞれであって、人それぞれを標榜している人のほとんどがたぶん自分の劇場の外に居る人を認知できない。できないことが悪いのではなくて、できない無垢さを大人としている人はヤバイというだけ。

 

満月さんが帰って来ないから、終わってしまった。

いや、今バックしまくっているから帰って来た模様。

 

もっとある気がするのはまた明日として今日はここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い現実を。