せかいかん

 

 

仕事1日でまた土日休み。こうなると仕事がちょっとした運動になる気分。年下上司が復帰していて良かったし、他の人も大丈夫そう。波に飲まれて申し訳ないと言われたが、体調不良が申し訳ないと思わなくてはいけない組織の構造がやばいだけであって上司は何も悪くない。報告と調整さえすれば問題なかろう。若い世代だからか、仕事にゲーム性を感じているのは良きこと。

 

やっぱり世の中の価値観が変わって来ているのだろうか。

しんどいとか頑張ることが価値であるという風潮はそろそろ風向きが変わっているのではと勝手な世界観。そんなことで世界は変わらないような。美味しく食べないと取り込めないし更新もできない。

 

 

運動と言えば、土曜日に2人して2万歩歩いた話って書いたっけ。

市役所に行く用事に付き合ってもらって、迷子になりつつある僕を方向感覚だけをレーダーにしてガイドしてもらうという逆転現象。陽だまり装備だったから、最後らへんは夜の寒さに2人とも股関節がやられて歩くと痛いという。それで日記も書かずに寝落ちした。

 

2万歩付き合わされても不機嫌にならない満月さん。

ただ、自己の空腹には不機嫌になるらしい。たしかに、ちょっとぴりっとする。山椒風味。山椒美味しいよな。柚子胡椒でも良いけども。

 

 

怒気の風味の違いは何処にあるかという問いに対して答えられなかったのだが、自分の世界に引きこもって、外の世界が悪いのだという怒気は去るまで待つしかないよなという感じ。自分がこれだけやっているのに世界からは返ってこないみたいな方向。ここに言う世界は代名詞みたいなもので、パートナーを当てても良い。自分だけがしんどい想いをしているという世界観の人の怒気って波が去ったらコロッと人格が変わって自分が怒っていたことも忘れているのではないかという感じ。

 

ちょっと思い出す。父親が亡くなった時の母親の言動。養護教諭である母はそれなりに応急措置の知識があるのだろう、私はできる限りのことをしたのになんで退場してしまったのだって憤っていた。悲しさの言語表現であるということかもしれないけど、当時は違和感。この言語化は、なんでそこで自分の行動が先に来るのかというところ。もっと上手くやればという後悔でもないのは何故だろうって。いや、もちろん脈絡的には悲しさの言語表現だとは推察される。

 

あと、幽霊が存在して父親が化けて出てくるとしたらまず一番に自分のところに出てくるはずという発言。なんなのだその自信と感じた当時。いや、別に2人の関係性について口出すことはできないが、世界を敵に回しても肯定できる関係性だった配偶者である母親が父親にとって一番の敵というか否定的世界だったように見えているから、どの口がほざくと思ってしまう。

 

父親はアルコールを明らかに世界からの逃避の為に使っていた。僕は酒量では負けていない気がするが、最初で学習された環境に倣うことはしないことにした。20代はやや倣っていた感じ。フラれて自棄酒で破綻的に飲むとか、つまらない飲み会で潰れるとか。

 

僕は配偶者を生活から逃避した場所で楽しまなきゃ過ごせないような否定的生活環境は構築しないと決めた。配偶者が居ないといけないということでもないが、一緒に過ごすのであれば、生活パートも楽しんだらよい。

 

そんな感じに過ごせそうだなとなっているから一緒に居るのが満月さんなのだが、なんだか折々不安げ。僕があんまり言語で説明することを是としていなくて、というか、言葉で表現できるような本質はないという世界だから、やきもきさせているのかもしれない。歴代の人の話が流れるにつけ、言語を現実化していないような人達ばかりなのに、なおさら言葉を求めるのは、言葉にはきちんとした手触りがあるからなのかなという想像。

 

僕の人生劇場の観劇だと、言葉を自分の実存ときちんと一致して扱える人なんて皆無で、流用か、コピペか、誇張表現か過小表現であって、普通は自分だけの言葉(文体)には辿り着けない。だって、言葉自体が社会的に流通する貨幣と似たようなものだから。言語表現を市場価値に換算するというのもそういう感じ。たしかにある言葉には金銭価値がある模様。

 

著作権という概念もある。

 

高尚な哲学を読んでいない人でも、存在という言葉分かるし当人なりの存在論がある。

別に僕が高尚に世界を認識しているということではないが、「存在は思考するもの、実在は感覚するもの」というフレーズは至言だと思う。

 

どちらにせよ物体ではない。それでも、ふつーに人はそれを感知にできる素養があるからこういう話が昔からでてきている訳で。そろそろ価値を前提にしない世界観で生きて良い世界になってきているのでは。

 

だって、お金だってとっくに現実的な金の価値から離れている。キャッシュレス決済なんてもはや物体的世界では説明できないのに、現実に浸透している。

 

こういう話ももはやどうでも良くて、要は、人にとって何が現実であるべきかという話。

僕は運動している人が好き。この運動は天動説ではなく地動説的な意味合い。現実が動いているだけの描写が天動説。どこに行ったところで、影響されないのだったら世界は自分を中心にしか回っていない。そんな交友関係をいくら増やしたところで、別の意味での天体観測くらいの離れた関係でしかなく。

 

 

最後。

 

満月さんの発言を分析するに、寂しさを埋める為に必要な人に価値がありそう。

たしかに、足りないところを埋める人という意味で人間関係が在るというのは分かるのだが、そうだとすると時系列で埋めてくれる人だったら誰でも良いということになりそうなのもたしか。

 

満月さんは僕に対して熱烈高評価で、僕だったらいくれでもボンキュッボンのおなごとパートナーになりえたという解釈みたいだが、僕は僕のことを条件で判断する人のお眼鏡には叶わなかったということでしかない。

 

人は人の人格はあんまり見ていないという世界観。

誰かでも良いし自分でも良いが、人格を表現できるような叙述は小説界しかない。描写はできるか。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。