つぎ

 

 

 

畳で直に寝て目覚めるのは幼少期の昼寝みたいで懐かしい。身体が痛い気がするが、この痛さは畳のせいではなく単に荷造りしたり重い荷物を短距離運んだりした筋肉痛が90%を占めていると思われる。

 

最後の晩餐が盛り上がっていつもより飲んだのだが7時過ぎには目が覚めた。特に寝不足感もない。やはり気分良く現実と繋がって飲めば次の日に影響はしない(自説)。

 

本日は移動日だが立ち合いが11時半で、時間も迫っていないから起き抜けに高速バスを予約。ちょうど良く13時半に梅田発。朝ごはんを最寄りのコンビニで買う。このお店も最後か。僕がなんとなく好きだった店長さんは挿げ替えられていて、特に愛着もない。コンビニ愛着で言えば規則正しい時間で10回も行っていないこっちの店長さんの方に既に愛着がある。完全に存在が認知されているし。こういう人が損する社会というのはどうなのだろうな。いや、生きがいだったら問題ないけども。

 

朝ごはんを食べて、最後の素人掃除をして後はもう出るだけという段階にしてまだ3時間余っている。過ごしてきた場所に挨拶回りをすることにする。おあつらえ向きに、ほんと、良い天気。素晴らしい世界。

 

まずは古書店さん。かなりお世話になった。実用的な意味合いではなく、ちょうど良いタイミングで変な本を見つけさせてくれるという意味。現実世界って、何か生活の壁を越えようと意志しないと新しいところには行けない。これは新書店でも同じ。目が行くのは知っている本群。古書店は、置き方があんまり規則的ではなくて知っている作者の本の横に知らない本があって、そういった配置でないと自分の食指に気付かないということがままある。天牛書店という場所は度々越えさせてくれたから相性良かったのだろうな。こういう文脈だと京都の恵文社書店も好き。不規則さが誰かの本棚感があってお邪魔して良いのかって微妙になる。

 

食レポかいな)

 

実際は開店時間にはまだ早くて、看板に一礼するというご挨拶。満月さんも気に入ってくれているから、今度は生活圏ではない世界線でお伺いすることになる。

 

 

次は最寄駅にあるオアシス。お刺身が新鮮で週末のご馳走でございました。惜しむらくは、昔は地ビールのラインナップに入っていたはずの「よなよなエール」が無くなってしまったところ。ビール好きには飲んでほしい1品。さらに最寄り駅を越えて10分ほど歩いた先にある緑地公園。ここも諸々お世話になった。公園は機能として歩きまわることが挨拶になるのだろうなと、徘徊(散歩)して去った。

 

そこから、神社。僕は無信教だし無神論者だが、寺社仏閣の空気感は好き。人が歴代整えてきたのだろうなって。とりわけこの神社はお参りしなくて通り過ぎるだけで気持ち良かった。最後は10円をお賽銭して鈴を鳴らしてお世話になりましたと無作法に合掌拝礼してお別れ。鳥居をくぐる頃に向こう側に熱心に拝礼をしている人が居たのだが、僕の挨拶とは違うのだろうなと見ていた。神様が居るとしたら個々の人の内側だから、礼儀作法を大事にしているのは神様ではなくてその人なのだろうなって。だって、ここは省略。

 

だいたいめぼしいところに挨拶し終わって戻って、あと1時間半残っていた。去って行く部屋で時間を待つのもアレだから、村上さんの新刊を持って近所の公園で読書することにする。幼児が引率されて公園にやってくる。あんまり微笑ましくない。歩行トレーニングというか集団行動トレーニングなのだろうな。必要なこととはいえ居たたまれない。

 

 

コーヒーが飲みたくなったからもう一回コンビニに行ってモカブレンドを購入してカンカン照りのベンチで読む。コーヒーも本も美味しい。

 

 

そうして退去の立ち合い。相場の退去費用を請求されるかもなという一般常識と、相場の勘定を越えているからなしになりそうだろうなという予感と、現実化したのは後者だった。原状回復ってあくまで原状が当事者に認識されていないとできない。時間が延びれば延びるほどぼやけていく。15年前の自分の原状が分からないのと同じように。

 

そういえば、賃貸借契約ってなんか変だなと景色を見ながら思った。田んぼは当人が使って作物を生産するためにあって、小作農制度で上がりを取るのはオカシイという感じから廃止されている。賃貸借契約って資本主義版小作農っぽくないか。住む機能以上に余剰を抱えてその余剰から上がりを取るって。これが無くなったら公共スペースがもっと増える。ただ、そのスペース全部を国家の責任にするというのも現実的ではなさそう。

 

 

そうして、次の現実。

長旅を終えて夕方に着いて。そこからご飯を作る。満月さんリクエストが豚汁をベースにした「和食」だったから、食材を点検して、てきとーに作ることにする。家事自体はそれほどしんどくなくて、しんどいのはそれをしなきゃいけないという義務感と一緒にすること。

 

出来上がったのは、豚汁の他に鍋で作る炊き込みご飯、ほうれん草の鰹節じゃこ和え、もやしの塩昆布和え。あと、村上さんの小説に感化されて粒マスタードとオリーブオイルベースでドレッシングを作ってベビーリーフにかけた。村上さんの小説の料理って美味しそうだがレシピが載っていないから、創造で埋めるしかない。

 

冷蔵庫を除くとカピカピの食材が多い。硯が来たからにはもう少し管理できる気がする。管理というより調整というか。世の中に売っている食材って1人暮らしにとっては多すぎるから、食べきることが難しい。でも2人だったらなんとでもなりそうという意味。

 

コンロが3つもあるから、今日食べるご飯を作りながら明日以降の作り置きもできるし、それこそ村上さんの小説の世界。僕はずっとパスタを茹でながらソースも作りたいと思いながら1つのコンロで生きてきたし。

 

2人分の味付け難しいかなと思ったのだが、味見したらなんとかなるなという感じ。そりゃそうか。1人で目分量でいけるのであれば、それを倍にすれば良い。味見もすれば良い。

 

 

硯がやってきたと満月さんが報告するビデオ通話に参与したとき、満月さんのダイエットメニューを教えると言われた。人参の切り方によって好悪があるというのはさすがの愛だとは思う。ただ、個人的には人の食って別に栄養だけではないという感じ。いっぱい食べても太らない人も居るし、少し食べただけでも罪悪感が積もって行く人も居るし。太って痩せた弟さんはきっと分かっているような気がするが、結局は精神。

 

いや、僕は太ったことがないし、今後も太る予定もない。とか現実で言うと反感を買うのだが、そこはお酒をいっぱい飲んでいると返せば相殺されるだろうか。これでも余剰になってはいないから、なんとも言えなさそう。

 

要は、何かの拍子に虚ろを実感した時にどうやって現実感を摂取するか。僕はここの境界を特に気にしていないから虚ろはもうないのだが、虚ろを埋めるためにお酒を飲むと大変なことになる。これが胃の虚ろになると、そりゃあ食べないと現実感が起こらない。美味しい物を食べるのが現実の醍醐味になるというか、胃が埋まっていることが現実感になるというか。

 

僕も貫禄が現実感だったら、とっくに胸板と腹が厚くなっているかもしれない。

 

 

満月さんは僕が現実で作っている料理を食べていたら勝手に痩せるのではなかろうかという次第。ダイエットの為に自炊なんてしていない、単なる愛が込められた普通のご飯。僕は特に好き嫌いなくなんでも食べられるから、あえて生活でのご飯は冒険しなかった。今後はコンロが3つもあるから、もう少し冒険して良い感じ。

 

痩せるのがほんとうに良いことなのかというと、かなり微妙なところ。

理想的なフォルムと当人の健康的なフォルムは違う。フォルムと精神が一致してれば一般的な体型とずれていても問題なさそう。そういう人はおそらく健康診断でも引っかからない。

 

僕は痩せすぎだってずっと言われてきている。でも、このカタチが一致しているから標準体重まで太る努力をする気がない。僕の日記を見ていれば分かるように、きちんと食べているのにこれだったらしょうがないし、これ以上食べるのしんどいし。

 

 

満月さんの一致はもっと鋭そうだから、半月くらいかな。

あんまり関係ないけども。

 

はい、ここまで。

 

明日は何を書けるかな、楽しみ。

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。