遊び時間の終わりが遅かったため本を読んでいない。特に問題はないのだが、単純に「1984年」の続きが気になる。「箱男」も面白い。この話はまた後で。

 

 

遂に面接の日程が決まった。明日、この暑い中汗だくになりながらスーツを着てネクタイを締めて行って来る。甚平のような緩い服ではなくたまにはかっちりした服を着るのも良き。

 

配属先の店舗の店長が面接をしてくれるのかと思ったが、会場が別店舗になっているためどなたが相手になるのかが不明。配属先の店長と社員2名のプロフィールはインターネットで調べていたのだが、無駄になるかもしれない。それならそれで構わない。メールでやり取りした採用担当の方は本社だからわざわざこちらまで来ないとおもうが、どうなることやら。

 

面接対策を新卒の面接担当もしている満月さんにご相談してみる。趣味を何にしようかという話になって、日記で良いのではないかとのこと。

 

たしかに継続年数で言えばブログサイトを転々としながらも10年くらいは毎日垂れ流している。アクセス数は気にしていないが、実績としてどうなかというとnoteだと今月で800ちょいで今週だと200弱。あんまり多いとは言えないような感じだが、タグ付けで宣伝していないアカウントとしてはどうなのだろう。僕の文章は読まれたいから書いている訳でもなく、書きたいから書いているともちとニュアンスが違う。読まれたいと書きたいの中庸部分くらいで漂流させているというイメージ。読みたい人、もしくはたまたま縁があってみつけてくれた人が読めば良いというコンセプトだから、タグ付けにはそぐわない(面倒なだけとも言える)。

 

ともあれ、単純に10年継続できるものがあるというのはアピールポイントになるということと、文章を書くことが苦ではないというのも自然に証明されるだろうとのこと。面接のアピールぽくアレンジするのであれば、その日の印象に残ったこととか読んだ本の内容を整理しながら書くことによって読まれるように客観化して書く能力が付いたとか(ほんまか?)。

 

あと、単純に記憶力が減退しないとか。箇条書きみたいな記憶ではない、エピソード記憶を毎日セーブして繋げているという。これは面接で言えるのかどうか。まぁ空気を読んで大丈夫そうなことは勝手に口から出てくるだろうという自動操縦任せ。

 

実績がないと単なる一人事を垂れ流している印象になりかねないが、ほぼそういったものがない。ただ、1つだけ報酬を貰ってちゃんと現実で書いたことがあるから、これでなんとかできるかとなった。現代劇の劇評。面白かった。主観と客観(観えた舞台)と創作者の三者の間で書く文体。やや製作者寄りに書いてしまった。演出家の人は劇評として書いたものではなく、劇評が公募されていなかった最初の作品を観た日の日記がお好みだったらしい。縁があったら飲みながら色々話してみたいところだが、僕にしか旨味がない関係というのはそもそも起こしたくない。

 

こういうのも思い込みなだけかもしれない。

越境は難しい。知識とか経験の領分ではないから。1人でできる越境は試行錯誤に言い換え可能だが、2人以上への越境は劇場(社会)に巻き込むことになる。影響が波打つ。

 

それでも良いとなったらもっと身動きが取れるから、これがきっと次の段階。

小躍りもこの文脈だと舞台装置になりうる。しゃべくりセブンで踊りたくない芸人というのを見て、ちゃんとまともっぽい踊りも踊れるように試行錯誤しようと思う次第。

 

書くことが苦にならないと言えば、ビジネスメールにも少しだけ馴れてきた。読み返し確認が減ってくる。文に不自然なところがないのかと確認していたが、そもそもビジネスメールって結構不自然。いちいち名乗りを入れた上で、最後には署名も入れるとか。こういう当たり前を自然とすれば、見返さないといけないところは文が上手く繋がっているか、意味が伝わるように書いているかどうかだけ。

 

言い回しも、「お願い申し上げます」とか、「教えていただけると幸いです」とか日常では滅多に使わないから気になるところ。それよりも気になるのは、僕が文章脳だからかもしれない。文章ってあまり同じようなことを書き続けると、読みにくいというか目のリズムが合わなくなるから、自然と文の終わりをばらけさせるようになっている。

 

僕の文体って体言止めをまぁまぁ使っているのだが、これって別に意識して書いている訳ではない。日記を書き始めた頃からこういう風に書いていた。

 

弁護士法人の事務所で事務員をやっていた時に、手紙の挨拶の文体は一定にするようにと言われた時の違和感にも近い。同じ挨拶の言い回しをすることって、挨拶としては成り立っているが、読み手からは読まれなくなる。たしかにここは本題とは無関係だから読む項目ではないのも分かる。ただ、だったらそれ自体まるっと省略した方が合理的にならないかという話になってしまう。

 

読み手脳としては、文章に読まないで良い部分があるという作法はいただけない。

なるほど。だから目次があるネット文章を読みにくいと感じてしまうのか。読みやすくするための作法として書かれている。

 

世の中時間が足りなくてドラマも倍速で見るくらいだから、文章も倍速で読めるのが好まれるのも分かる。僕は逆行しますけれども。

 

読み手脳って、文章を読むことが苦にならないこと。

これはきっとアピールポイントになりうる。賃貸借契約書とか重要事項説明書とかを読めますって。

 

文章を読めなくなるのが経年のせいにされる風潮は、文章読まなくても人生が恙ないという、想像を経験で埋めてしまうことによると想像する。要は自分の経験外にある世界は現実であってもファンタジーみたいに捉えてしまう。ファンタジー好きな人は読めるが、ファンタジーより現実に価値がある人は、暇つぶしでしか読めなくなる。

 

という説。

 

文章ってなんだかんだ言って情報として遅い。

フェイスブックとかTwitterの短文の情報更新が新幹線とか自動車の速度とすれば、まとまった文章とか、書籍は散歩くらいの速度だと思う。更新が早い情報はすぐに読み手を移動させてくれるけども、移動の過程が把握できないとジェットコースター的に振り回されるだけになる。

 

散歩だと道中にそろそろ向日葵が咲いていることも眺めることができる。

これは現実。

 

読書ができる人は、これだけ高速に展開されている社会劇場の中であえて散歩に速度を落とせる人。遅いのって世の中においてあまり良くない印象だが、経験外で動けるって経年していくと現実世界ではここしかないような。

 

1984年」がSFの名作だというのは聞いていたけど、実際読んでみて世界観が滅茶苦茶緻密。なんなら現実にちょっと越境している感じ。ちょっと越境で言えば「箱男」もそんな感じがある。

 

細かく書くと寝る時間が減ってしまうのだが、これだけ抽象化して書いていると、僕がこれらの本をきちんと読んでいるのかが読み取れない。

 

でも、僕は別に誰かに証拠を示すために本を読んでいないから、ここまでで良いか。

読み終わった後に気が向いたらそれぞれ総括した文章を書こう。

 

 

はい、ここまで。

 

面接官がどんな人なのか楽しみ。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。