モニュメント(前

 

 

真面目に書くのは面白いな。書かないとたどり着けない自分が見つかる。息を止めて自分に潜って自分のものだけの言葉を拾ってくる作業。あぁこれが創作ということなのか。癖になりそう。しかし、はて。劇評で創作とは。

 

昼前まで寝て英気を養う。予定よりも随分遅くなった。コンビニにおつまみを買いに行く。天気が良くてまぁまぁ暖かかったからか、かなり人が多い。コンビニ事情からすると店員の女の子が制服を羽織っていないのは、休憩中に駆り出されたのだろう。立ち読みをしつつ待つが、一向に途切れない。こういうところでちゃんと並んで場所を取るのも争いだとすると、こういったのはできないんだよなと思う。ここで戦うのであれば店員さんのことは気にしていてはいけない。

 

じゃがりことあたりめとチョコとブラックコーヒーを買って、本格的に潜る。最終的にこれ以上も以下もないという文章にしたのだが(いや、果たしてははたしての方が良かったかも)、書き終わった余韻のまま入ったお風呂の中で、いや、そもそも「劇評」の枠として大丈夫だったか、近すぎないないかという危惧が生まれる。ついでに2年前のあの日のエピソード書いてはいけなかったのではとか。どうなのだろうビクビク。

 

顧みると、初めて劇評を書いた「ひたむきな星屑」のときは、かなりかくかくしているというか、初めてだから劇評という枠に固執した評論文みたい文章だったな。一緒に観た当時の恋人さんは「分かり易い」と評してくれたから、あぁいう作品と自分の距離感をきちんと保ったことを書けば良かったのかもしれない。ただ、あちらはちゃんとした演劇で確固とした世界観があったからそう書けただけであって、こちらはそうではない。自分のことを書きなさいと訴えてくるから、そもそも劇評の枠に捉えられないのではないか。「0番地」は普通に劇評的に書けたところからしても、自分語りみたいになったのは対象のせいだとしたい。

 

ルールとして大丈夫なのかと思うところは、演者を固有名詞で書いたこと。素朴に捉えれば当然なのだが、演劇として捉えるなら、演者の固有名詞は出てはいけないような気もする。それを踏まえて書きましたよという注釈を書く余白は2400文字程度の世界にはなかった。公開を選択してありがたいという謝辞も入れようと思っていたのにこれも書けない。まぁこれは制作関係の人が読めば、僕がどれだけ楽しみにしていて実際に楽しんで感謝しているかは分かるはずという希望的可能性にしておく。

 

対象の状況とか視点にまで移入するのは、生活上の越権というか、人生上のルール違反な気もする。真面目になればなるほど不真面目になる。自分の人生を大事にすることって時に他人と争うことになっても確固とした自分を決めて、それを信仰することに見えるのだが、僕はどれだけ無関係なところに移入できるが人生なのではとしているため。別に自分のことは確固とする必要がない。

 

これが劇評を書かなければ辿りつけなかった自分。争いの主戦場は主に内側にあって、モニュメントは自分が戦った跡。「あの日」=「幽霊」との和解も書きたかったのだが、これも制作日誌読んで予習したコアなファンでなければ分からない。「あの日」が幽霊なのは、今の自分からして存在するかどうか分からないから。存在しているかどうか分からないものには当然に忌避感が生じる。だから、「あの日」からの逆襲がある。現実的には後悔という感情になるのか。「あの日」に負の感情を押し付けて他人事にするから呪われる。劇評には書かなかったが、もう覚えているという最後の台詞があの日という幽霊との和解なのだろうな。自分の中にあるあの日を自分事として承認する儀式。

 

自分との争いをし続けるなら人と争う必要はないよなというのが終着点。僕に対して求めるだけの人に妥協する必要もないし与えたから返せにも応える必要もない。

 

ほんと、この3年はとてもありがたかった。

自分にたどり着く過程みたい。

 

今回の劇評でちょっとやってみたのだが、言葉を削ろうとすると必然的に漢字が多くなり、ビジュアルがごてごてしまうため、あえていくつかの漢字をひらがなにしてみる。謎の人に倣って。たしかに読む前の見た目がやや柔らかくなる。なってないかな、どうだろう、後のことは知らない。

 

人を大事にするって、自分のものさしの限りではなく、人から何かを食べる限りではないと思う。人は変化するのだから、固定値の部分を大事にしていたら取り残す。だいたいは外れないとしても、大事にするのは扱うではなく承認だろう。僕はあんまり対象を大事にしているとは見られない。本もてきとーに扱うから、本を物として大事にする人から怒られる。いや、大事なのは、外にある本ではなく、その本の中身を自分の中にどれだけ残すかであって、記録とか財産ではない、と反論はしない。自分を世界に置いている人は「あの日」の逆襲があるだろうなとだけ。

 

物は物でしかなく、どれだか浸透しているか。なんなら言葉として再現できるかまであるが、再現できなくてもちゃんと自分にしていればそれでいいと思う。自分にしている証拠を物に依存しているのはなんともなぁとは思うが。

 

 

この文脈で見ると、やはり謎の人だけおかしい。

僕の中でも完全な特異点みたいなところはあるのだが、特異点だと決めたのは僕ではない。

 

何で、僕にあんな固有の言葉を向けてくれたのか、プライベートでは一切会う気がなさそうなのにそれでも読みにくるのはなんなんだ。

 

そういえば、小川さんの小説で、「小説は存在しないものを存在しているものとして書くことだ」というフレーズがあった。

 

まだ9時か。次はワインか日本酒か。

マーライオン的な日曜日としての「あの日」が積み重ねされそうだが、全部吐き出しておきたい不真面目。

 

あぁ、とりあえず前半で整えて、酔いどれ混沌は後編にするか。

 

では、後編へ。