諦観

 

 

 

マーライオンにはならなかったがすっきりしている。いつもより残っていたが昼まで寝てコーラを飲み、温そばと梅干しご飯を普通に食べる。ワインとビールではあんまり残らないみたい。なんとなく最後らへんに素の語彙が出てこじれた気がするが、僕で在るため問題はない。いい加減引いて欲しいところ。

 

さておき。

 

劇評は大丈夫だった。企画担当の人は褒め上手。「毎回素敵な劇評」というフレーズもほっこりするが、励みになるという表現がとても嬉しかった。利己的なものが利他的になるのはとても良きこと。謎の人からのレスポンスはないが、逆に良い。何回も読んでくれている姿が浮かぶ。とってもかってにかわいい。全然失恋できないというクレームを入れたい。

 

さて、次はどうしようかと考えて、一応もうひとつブログを作った。恋文的な趣向は辞めて、自分の言葉を綴ろうかと。ただ、自分の言葉とはなんなのだろう。

 

劇評を書いていたり、論文試験のときだったりに、思考の果てみたいなところに辿りつく。たしかにそこから拾ってきた言葉は僕だけのものだ。劇評のタイトルはほんとにアレしかない。あと、書く前は別に良い争いを定義づけることは考えていなくて、書いていているうちにあぁなった。素朴に考えれば、たしかに「あなた」にとっての良き争いとはなんですかと問うている作品だから応答しなくてはならない。そうなるよな。

 

いつか、「本の師匠」が、あなたは方程式のような文章を書くと予言してくれたのだが、今回の劇評はちょっと近づいてきた感がある。体言止めが好きなのは発話とは別枠で、その先は削っても意味は繋がるし、音の響きが残るから。パラグラフの小タイトルみたいな語用もあるな。あと、接続詞と指示語もなるべく使わないようにしている。接続詞がなくても文意が接続していれば読めるから省略して良いし、指示語は読んだ人がいちいち立ち止まらないといけなくなる書き手に都合が良い言葉だから。

 

自分の文体を意識して読むと、なんというか、無意識的にとても繊細に書いている。今までわからんかったんかいと自分から突っ込まれそうだが、意識の死角だった。自分にまなざしを向けるなんてあまりないことだし、自分は読み物にはならなかったし。繊細と言えば、自然に語尾の音を毎回変えている(変えないときもある)。

 

 

言葉における可動性は、酔いどれで書いてきた膨大な下地があるからだと思う。劇評が今までより楽に書けたのもそう。楽というのは仕事=作業みたいな部分ではなく、文章にすることが楽になったことにより本質まで考えることができたということ。だったら、この時間は自分に還元されている訳で無為ではなく、やはり継続は力なりだよな。

 

無意識でも歩けるが、意識して歩くと歩き方は変えられる。発話だって文章だって同じことだ。世界の見え方も同じ。文章で言えば、謎の人は理想的な読者だから離れがたい。良い争いをあぁ定義すると、あまり変化はなさげ。今を楽しく注意深く生きることで「あの日」を供養していく。ただ、文体としての僕の効用があるとするなら、もっと広く書いていくという手はある。

 

存在として見れば別に何かを主張する必要もなく僕は在るのだが、書くことで誰かに利益が生じるのであれば甲斐がある。僕の素朴な生き方としての越境的移入で言葉を綴ること。あと、書かないと分からない自分を拾い上げるということ。考えるに言語を使っていないから可視化しないと自分にも読めないところがある。可視化する試みがこの何百の記事群だが、可視化しているだけのため、ネタが尽きることはない。

 

時間と空間の中でしか人は対象を捉えることができないというのがカントさんの説で、だいたい正しいとは思う。ただ、時間性と空間性って、夢の中ではどうなのだと気はする。直感も時空を超越することもあるような。自在性。素朴な自分に立ち返ることができたのも、書いてきたから。言葉は自分であるという境地。こういう境地は一般的ではないのは分かるが、そうなんだから仕方がない。ちゃんと一致させている人の言葉しか読みたくない。いや、不一致も面白いときはあるが。

 

やはり、言葉も発話も挙動なのだから、使ってないと鈍るとは思う。発話は仕事で養える。プライベートの一生何回分の発話しているのだろう。喉仏は一向に出てこないが。

 

言葉でいうと、そろそろ物語という形式で自分の言葉を探すというのもありかもしれない。浅瀬での泳ぎ方はだいたい分かった。次は、潜水訓練、みたいな。芸術家的な要素は一切見いだせないが、やってみたらどうなるか分からない。

 

謎の人は謎過ぎるから、今後どうなるかは分からない。

現実的にではなく、観念的に。

 

では、安らかでありますように。

おやすみなさい。