積み積み

 

 

20:14から。

 

随分と早い書き始め。だからと言って1日を使い切っていない訳でもない。

 

昨日は桃鉄3年決戦をして、1時くらいに就寝。

朝方激しい雨音をBGMに雨が降っている夢を見た。満月さんと2人で外の景色を眺めつつ、なんだか浮遊感があるし、景色が流れていないか? という話になり、部屋ごと嵐で飛ばされていた。着地する時に、終わったかなとなったのだが、夢がクッションになって衝撃は無かった。

 

朝からコンビニでカップラーメンを買って2人で食べる。

 

少し休日にお仕事。休日にお仕事なんてしたくないのだが、社会的な時間がずらせないことについてはどうしようもない。こういったシビアな時間間隔は結局日常に応用できるから、時間に使われるのではなく、時間を遣うことができるようになるとすれば、問題無い。

 

そこから、昼過ぎまで満月さんが1人桃鉄をしているのを横目にお勉強タイム。

建築基準法やら、連帯保証人と物上保証人の求償権やら、細かい問題を解いた。

 

建築基準法の問題。

 

ほんとどうでも良い問い方だと思ったのが、工事完了後に施工者は建築主事に3日以内に到達するように文書で届けないといけないという枝。答えは×で、4日らしい。条文に書いてあるから、それを知って居るかどうかだし、実務で3日だと思ってそれを前提として行動したら実際4日だったって、なんの問題も無い。むしろ、そんなぎりぎりにやろうとすることはほとんどなくて、3日だとしても1日、2日でやる内部のガイドラインがあるような気がする。

 

他の枝はきちんとしていた。

施工主は建築確認をする際に、建築物の所轄の消防長または消防署長の同意を得ないといけないという問題は×。正解は申請をされた行政機関が行政の内部手続として同意を受けないといけないという規定がある。

 

あとは、文化財保護法文化財に指定された建築物にも建築基準法の適用があるという問題は個人的に好き。正解は×。建築基準法って建築物がどう建てられるかとか、実際にある建築物について、無作為に建てたら崩落とか延焼とか近隣の人に危険が生じる可能性があるから、主に安全を目的とした基準を設けようよねというコンセプト。

 

文化財は別の目的である、歴史として保存すべき建築物を保護していこうというコンセプトだから、制度の方向性がずれている。おそらく都市計画法とかで、文化財から通常の建物は通常の建物同士より離れて建てなければならないみたいな基準もありそう(想像)だし、根っこまで考えていれば、知識が無くても解ける問題なのが良い。

 

そういえば、満月さんに教えてもらった本日のニュースもこれと近い。

映画の助成金が、出演者が麻薬取締法に違反して捕まったからという理由でキャンセルになった事件。

 

地方裁判所がこの判断はアウトだとして、高等裁判所がいやOKとして、最高裁判所でやはりアウトだろうと判断した。

 

最高裁判所の判決文はまだ公開されていなくて、高等裁判所の判決文だけざっと読んだのだが、おかしな話だと思った。

 

 

以下は法律畑の常識として書く訳ででもなく、あくまで個人的な感覚論として読んでいただければ。

 

行政機関って、前提として目的が無いと存在できない。会社の法人も同じようなものだが、これが目的無く存在できる私人との違い。私人でもそんな意識で生きている人は見受けられるし、僕もその分類にされそうだが。

 

で、この映画の助成金を交付する独立行政法人は、映画の芸術性を判断する訳でもなく、おそらく一定の条件を満たした作品を提供する表現者に対して助成をするのだと思われる。一定の実績があるのかとか、実際に公開できのかみたいなレベル。この条件の中に芸術性の高低が入ってくるとすれば、それこそ表現の価値を国家(独立行政法人と国の違いなんて一般的な人には分からないだろうし)が決めているという印象を受けざるを得ないから、品行方正な作品しか公開できなくなる。

 

今回の事件の高裁の判断の中に、この作品に助成金を交付したとしたら、国が麻薬を助長していると一般的な印象が生じないとは言えないというフレーズがあった。これってまぁまぁ国民を馬鹿にしている。そんな訳あるかいなという世界観なのだが、他の人はどうなのだろう。あと、行政法で良くある多事考慮による違法に近い。

 

例えば、風俗店が建築されるのが嫌だと近隣住民が言ってきたもんだから、無理くり近くに公園を作って、公園の近くに建てようとしているから無理ですねと不許可にしたとか。

 

あ、これ多事考慮の案件ではなかったかも。

目的外のことを目的にしていたから一発アウトみたいなことだったような。

 

個人的には助成されるべき映画として認定したのであれば、出演者の云々に関しては表現側の問題。これで公開を自粛したのに助成金を貰っていたとかになると話は別になる。

 

地方裁判所の判決文は読んでいないけれど、おそらくこれまでの前例から判断して助成金を交付しない処分をしたのは違法となるということだったのだと想像する。

 

高等裁判所の判決文の中に、「公益」という単語が出てきたのが気になった。

「公益」って、なんというか、読み取る人によって意味が変わるマジックワードだから、その中身を言語化しないと意味が分からない。おそらくここと一般人が国に対してどういう評価をするかという想定上の話に繋がっている。

 

映画は勝手に流れてくる情報とは違って、それを見たくなければ見なくても良い媒体なのに、見ない人達の評価の方を重視しているというのが弁護士さんの評論にあったのだが、その通りだと思う。

 

こういう話になると、自分が納税しているのをこんなことに使われてけしからんみたいな感情論が出てくるのだが、個人的には用途を指定できるような社会契約ではないから、割と頓珍漢だと思っている。まるっとパッケージとして契約しているという仮設であるからして、文句は選挙によって間接的にするしかない。なんでこういう制度になっているのかやや不明瞭な感じだけども。

 

色々錯綜しているけども、僕の中では表現物を普通に鑑賞できる人が助成金の云々を問題にする訳が無いから、助成金を問題にするのは表現物を日常的に鑑賞しない層であって、その層を気にしていたら表現物を保存することは不可能になる。

 

文化財の保護に財源を充てるより、我の生活を保護してくれという価値観の人ばかりを相手にできないという意味では、国家を擬人化するとこの人色んな層に気を遣って大変だなと思う。

 

多様性って個々人が尊重されるみたいな触れ込みだけど、どんな個性も標準化されるから、要はみんな一般人となるだけであって、一般人の範囲が拡がっただけなような。特別の類型の垣根が無くなるということは、どんなハンデがあったところで皆スタートラインは同じところになる。これって凄くアメリカ的なような。

 

 

 

やれやれ。

 

この後の方が面白いのだが、書ききれるかいな。

 

貧乏で遊び所が無くなってきた我が家庭。ここで本質が出てくる。

僕が古書店に行きたいと言ったら、満月さんがこの前(1年前くらい)に行って営業していなかったブックカフェに行きましょうかと提案し、この案が採用された。

 

やっとこさ営業していた。

コーヒーも、キャロットケーキもやたらと美味しい。メインの本も旨味。

 

個人的に気になっていた言語学の系譜に居るチョムスキーさんの「言語と精神」があって即購入を決断。ついでに柄谷行人さんの「反文学論」があって、拾った。

 

満月さんもシュールレアリスム系で良い本があったようで買っていた。

 

あと、面白いのが、張り紙を眺めていて「積読協会」という怪しげな集団を見つけたのだが、それで笑っていたら、店主が会話に参加してくれて、今年の積読ナンバーワンはなんやらという作者の「徳川家康」だったとのこと。実体験だが、やんわり「四畳半神話大系」みがあった。

 

僕の積読は、読まない本を積んでいるという意味ももちろんある。日々読んで居る量より、時々でも追加していく量と、もともと家の書庫にある量が半端ないし。ただ、個人的な積読は、積んでいる塔として30冊くらいを並行的に読むという意味になるから、積読協会に入ったところでずれるかもしれないと思う。

 

「言語と精神」。

まだそれほど読んで居ないのだが、体がぞくぞくと反応するから今の自分と相性がイイ。

 

言葉をどう扱うかという次元において、道具であるというのは当たり前だけど、どういった道具なのかとなると、途端に難しくなる。自分が操作できる道具だと定義できるとすると、その人はきっと言葉に操作されている。言葉は操作するから出てくるものではないし、もっと無意識の領域にあるような。

 

使える道具だとする定義の死角として、道具だとすれば、出自が外からはっきりしていることにある。メカニズムは分からなくても、物体ないし情報として仕様がなんとなく外から把握されているという意味。自転車も自動車も操作できる道具だが、言葉はこの水準と同じものではなく、定義ではなく肉体に付着している。

 

デカルトさんは人間の固有性を言語としていたみたいだし、チョムスキーさんもこの意味での言語能力を述べていくみたいだから楽しみ。

 

 

 

あとがき。

 

村上春樹さん枠で、「ドライブ・マイ・カー」を読んでいるのだが、なんだかちょっとちくちくする。仲良くしていると思っていたパートナーが他の人と仲良くしていた(肉体的な意味で)という話は個人的な体感としてまぁまぁ痛い。ほんとうに痛かったのは、当時のパートナーが、それをしたら僕が痛いのは理解しつつ、それをしたという自覚があったこと。一般論では無く、具体的に把握しながらというところが痛かったのだろうなと。

 

前書きで、短編では色んなモチーフを多角的に捉えられる面白みがあるという話があって、最初に読んだときにはそういう人も居るのかという外の話だったが、なんとなく気持ちが分からなくもなくも無い。

 

言葉ってそういうもの。

現実の実体験が写し取れるものでもないし、そこにはどうあっても客観以外の恣意が入って来る。

 

これは言葉を絶対的に信じている人にとっては悲しいことかもしれないけども、逆に考えれば解き放たれているとも言える。

 

反応の制御の外にあるのが言語能力であるという話もあった。

 

 

まだ書けそうだがこの辺で。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。