組み合わせ

 

 

22:03から。

 

 

洗い物をしたいのだが、書いてからにしよう。

 

本日の晩御飯は、ベビーリーフサラダにキッチンペーパーで水分を抜いた豆腐を崩して乗っけて、オリーブオイルベースのドレッシングをかけた物と、レンジだけで作る、もやしの上に鶏むね胸肉を乗っけて、玉ねぎと新生姜のみじん切りと諸々を加えたタレで食べる香味料理。むね肉を1.5枚使っているからボリューミーなのだが、生姜であっさり食べられる感じ。

 

時間が許す限りタレを漬けたし玉ねぎのみじん切りも水で硫化アリルを抜いたから、それほど鼻から抜ける嫌な香味は無い。オリーブオイルと豆腐って個人的に相性が良い気がするのだが、一般てきにはどうなのだろう。

 

 

さておき。

 

人って色んな舞台で生きているから、休日から仕事に切り替わるとき、ホメオスタシスが切り替わるのが嫌だと訴えてくる。サザエさん症候群とか、なんとかブルーとか、割と当たり前の機能。ここの内部的切り替えの不具合に過敏な方がメジャーで、鈍感な方がマイナーなような。世の中的にはマイナーがメジャーになっていて、人は1つの舞台で生きていて場面が切り替わるだけみたいなことになっていると見受けられる。これって、天動説的人間観でないか。

 

僕も昨日文章脳というか、思索脳が盛り上がっていたから、絶賛仕事に拒否反応。仕事舞台に入ってしまえば、そこで楽しむから問題なし。だからといって、切り替わるときに何か不具合のようなものを感じないはずがない。

 

これがおかしいという人の方が機能不全っぽいのではないかという疑問があるのが個人的な世界観。だから遅刻しても良いとか、自分の主観のみで生きれば良いという感じはない。色んな舞台には、それなりの作法があるというだけであって、1つの基準の人格では動ききれないなというだけ。

 

お仕事。

 

視点がなんとなく別物だとできるということは、この舞台で動く身体作法が習得されてきたのかもしれない。マリオネットから人間になってきている。人間になるという意味は、別の舞台の考え方を持って来て良いみたいな話。割とこの舞台、自分が守れればそれで良いという感じの世界観なので、僕もここに倣って行こうとなりつつ、いや、他の方法論もありそうだなとか。

 

人格が統一しているみたいな話に収束しそうだが、個人的には人格が統一しているというのは嘘というか、人間を分かり易く把握するための仮設だと思っている。

 

もちろん、内部の世界観なんて外部というか社会的人格としてはどうでも良い話で、社会的に何か悪いことがなければどういう内部であっても問題ないこと。

 

ただ、社会的に自我とされている人間と、個々人の内部の人格が完全に一致するのはおかしい話だし、世界をどうまなざせば良いかが分からなくなってくる。他人の共感とかどうでも良いのが本質だから、スキ集めみたいなことはどうでも良い。共感って一方通行同士の響きでしかないだろうし。

 

 

ふと思索。

 

先輩女子は某宗教系の大学に入っていたらしく、礼拝とかの時間が苦痛だと言っていた。宗教は人間が素朴に持っている後ろめたさの為に発明された神システムだ、みたいなことを言っているのが「道徳の系譜学」のニーチェさんなのはともかく。

 

今の若者に顕在化されているのだろうと思うけども、きっと得体の知れない規則に従うことにとても嫌悪感があるのだろうなと想像する。僕はもう相対的に若者ではないのだが、親族の集まりとか、何だか嫌だった。先輩女子は親族関係との不和はなさそうで、そこの集まりは問題なさげ。こちらは規則まで行っていない道徳的な規範だろうし。

 

規則的に生きる為には、外に媒介が必要なのが人間という歴史があったのだろうなと想像する。これが昔は神様だったし、今は法律になっているような。

 

目的とか動機とかやる気みたいな概念も内部の規則としての媒介の話。

 

神様の言う事には従わなくても良いけども、法律には従わなきゃならないのは、後者には現実的なペナルティがあるからという違いでしかない。何故従わないといけないのかとかまで考える人は、きっと法学者になる人であって、一般の人は法律知識を集めようとすれば収集できるけども、どう合理性があるのかまでは至らない。

 

法学者だって、全ての法律に精通している訳でもない。

専門分野があるし、全ての法律を把握することは人間の脳の容量と法律のデータ量的に無理ゲーになる。

 

昔は神様の世界にも従わなければ現実的に不利益になるから従うという規則があったのだろうなと思う。日本は一神教の世界ではないから、知恵袋的なところで規則化されていた。

 

例えば、僕の幼少期にはお盆には川とかプールで泳いではいけないということを言われていた。河童に攫われるからという理由だったような気がするのだが、これは具体的な理由を言わずに神様のせいにしているだけで、想像すればなかなか合理的な話。

 

おそらく、お盆前後は大人が儀式というか親戚の集まりの為の準備があって、子供を見る目線を取れないから、危ないことをしないようにという理由。お盆は忙しいという舞台感覚がない子供にこの話をしてもピンと来ないから、何か怖いことが起っちゃうから子供だけで泳ぐのはやめとけという神様の世界の方がピンと来る子供に対する説明としては適切なような。

 

合理的な説明の前提には、科学的に確証を取れているかということは特に意味を持たないというお話。

 

きちんと言葉を尽くせば相互理解が生じるというのもまぁまぁ仮設っぽくて、一方的な言葉の洪水に耐えられる人はなかなか居ないと思う。授業とか講義とか聞き側でしか居られないとき、人は眠くなる。

 

眠くなったところで、興味があるかどうかとは別の話。

 

 

何かもう1つあとがき的なところがあったような気がするが、満月さんが帰ってきたのでここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。