言葉と世界

 

 

世界が在るのは自己の中だが、誘導灯は外から照らす。

 

 

 

近所のコンビニに行っただけの1日。3回も。

1回目は起きてすぐ。朝ごはんのサラダ巻きとアイス(あ、食べてないな)と水とマッチを買った。本をぽつぽつ読みつつ、雑務。2回目は昼ご飯にお稲荷さん3つとお茶、雑務用の切手と封筒。残っているのに買い足してしまった人参を消費しつつおうどんも作る。

 

雑務はお役所に行かないといけないかと思ったがそうでもなかった。行政コストのカットは、日常雑務のコストもカットする。管理社会も悪いことばかりではない。雑務に取り掛かって1日で完結するのは精神コストのカット。

 

3回目はビールと煙草。食材が豊富だからスーパーに行く必要がなかった。移動時間をお金で買うこともある。京都行くのに新幹線とかまさに。ただ、移動時間そのものにも価値はあるから、高速バスも大好物。夜行バスは外の景色が見えないからご勘弁だが。

 

移動時間と金銭に交換性はなく、ただ都度選んでいるだけ。

いや、選ばれているとも言える。

 

 

夜ご飯。昨日スーパーに寄った当時では、人参を消費するために炊き込みご飯でも作るかという気分。新ごぼう、油揚げ、鶏肉、(きのこはある)を買い込み、いざ作ろうとなった時にはそんな気分でなくなった。そこで、鶏ごぼうのイメージでてきとーな煮物を拵える。いや味は美味しい。本日は新ごぼうブームが続いていて、ごぼうサラダってマヨネーズがかかっていて美味しいというイメージから、鶏肉、人参、ピーマンとマヨネーズ入りの炒め煮にした。明日はもう1枚残っている油揚げと豊富な人参を使ってひじきの煮物を副菜にしようと目論んでいる。ひじき好き。

 

ふと思ったが、この文章って日記の枠から外れている気がする。日記って基本的に時系列に沿って書かれるもの。かといって散文でもないし随筆でもないし、エッセーでもなく。いったいインターネット世界に何を流しているのだろう。漂流文。

 

 

そういえば、「クリステヴァ」。あまりに用語が分からないため、wordで用語集を自作することにした。ラングとパロールとか、カーニヴァル小説とか。ソシュールから読んだら良いのだろうが、人間の読書界の醍醐味は時間を遡行することもできることであって、これはこれでちょうど良い。用語をまとめつつ、考察もちょこちょこ入れている。

 

登場人物が対象を直接指示する言語をモノローグと読んで単一論理的と書くのはなかなか秀逸。文にツッコミを入れながら読むのはこの意味でモノ的読書観と言えそう。グーグル先生に質問していたら、日本語のモノローグ性というPDF論文を見つけてせっせと確保した。

 

PDFファイルもたくさん溜め込んでいる。だいたいは最新の裁判の解説文で、最近消化したのが、性同一性障害の人が性別変更をする条件として、「未成年の子が居ないこと」という条文があることが問題になった裁判。合憲(変更できないのは正しいルールだ)ということになったのだが、家族・性別の多様化に裁判所が追い付いていない感もある。宇賀裁判官が反対意見を出していた。他の裁判でもばんばん出していて、やはり学者枠の人は違うなと。憲法ではなく行政法学者。

 

まぁ素朴な価値観として受け入れることと、社会として承認することには溝があるのはたしかだが、夫婦別姓と比べると行政コストはあまり問題にならないような。子供の生活に混乱を来すみたいな理由だったと思うが、子供が見ているのは社会のルールではなく周りの大人だから、どちらが融通利かないのかは判然としている。

 

少し脱線した(脱線・混線だらけ)。話題を戻す。

 

言語学でグーグル先生に聞いても分からなかったのが、「言説の線的性格」という表現。こうなると、定義ではなく感じをなんとか類推して掴まないといけない。ソシュールの言説だということと、その後に詩的言語は「時間の外」にあるというところ。合理的芸術観という単語もあった。ここから感じ取ったのは、言説と現実を相似で捉えるということを線的と表現しているのではないかということ。

 

ここでまた別の本を持ってこないといけなくなる。「共通感覚論」のマルクスさん。「五感は歴史の集積の上にある」という下り。社会学言語学とは近いところにありそう。メディア論でもあったが、五感のどれを優位に置くかは、時代によりけり。ルターの時代が聴覚が優位だったらしい。偶像崇拝禁止(言語としての固定化の禁止)の宗教観とセットなのだろうな。

 

そこから時代が進んで、見る主体=個人=まなざしとしての視覚がもっとも優位になったとのこと。言語化とか画像化とか絵画化とか全部視覚メディアの話。見える世界が世界だとする世界観は歴史の流行でしかないということ。歴史を学ぶのは起こった出来事を知識として覚えるのではなく、今の相対的な位置を把握するという意味で大事。

 

で、線的性格だが、合理性とキリスト教を併せると、世界は終末に向かっているという時間(空間)が直線上に過ぎているという世界観。これを言説に持ってくると、言説は初めと終わりがあって、終わりに向かって進んでいくということ。これだと矢線(ベクトル)的性格になると思ったが、外国語って日本語と同じように順番に文字を追いながら読むということではないかもしれない。英語だと大事なことは先に来る、というところからの想像。

 

言説における線とは、言葉の記号としての意味を行き来する綱渡りみたいなことなのだろうなと至る。言葉を追いさえすれば理解できるという二次元の世界観。現れたものだけしか見ようとしないという意味では、現実も二次元的に生きている人も多いのかもしれない。

 

クリステヴァさんは、言説をより人間そのものとして捉えようとした人だったのかも、とか。

 

まだまだ発想中の試論。

 

こういうことを考えたかった。

発想の自由度は、誘導灯によるような気がする。

 

そして時間も戻して。

 

冒頭の文は、1回目にコンビニに行く道中にふと出てきたもの。

noteでハイヤーセルフとの対話の記事を読んだあとに。

 

僕、こういう意味合いで何か啓示があったことが皆無なのだよな。幽霊も宇宙人も在って良いと思うが遭ったことはない。ずっと気になって居たことが浮かんでくる。これはこの前書いた、神様と接するときにルールに阿らないといけないのとも近い。

 

そもそも、なんで啓示が言葉なのだろう。

言葉は、世界のモデル化(by言語学)でしかなく、いわば物体界のことなのに、高次元の存在が次元を落として疎通してくるのか。素朴に違和感。

 

本質は言語化できないって書いている人の文章はとても馴染んだ。

論理として一貫している。高次のところには言葉は無い。

 

善解しようとすれば、感じとしての啓示を自分の言葉で解釈すればそうなるということだが、言葉に成っている時点であんまり高次でもないような。

 

別にツッコミを入れている訳ではない。

僕はどちらかというと物体界からはやや浮いて生きているし、感じとしては分からなくもない。ただ、そうだとするとどうしてそうなるのだという感じの味がする。

 

こういう世界観も誘導灯になっているのは確かではある。

 

誘導に従うかは任意であることが、自由性。

 

 

さて、これからどうするかな。

 

 

おやすみなさい。

 

良い言葉(世界)を。