砂上の
23:58から。
事情があって、こんな時間から。
ほんと、昨日書いたように注意力がやばいことになっている。
お仕事はなんとかなった。
注意力が落ちた分、素朴になってなんとなく上手くいった。連勤で注意力が落ちているときって、アルコールに酔っぱらっている状況に割と近い。そして僕はそこそこ酔っている時の方が人たらし能力が開くという。
もちろん弊害もある。何か抜け落ちているところはないかという強迫観念が起きる。酔っぱらっている場合は自己責任だから、別に何が落ちていてもしょうがない。酔っぱらって他に迷惑をかけるような節はもうしない。
でも、仕事ってそもそも終わりが無いもの。強迫観念は無いよりあった方が良い。振り返ったり未來を気にしたりきょろきょろできる人の方が有能になりうるという説。眺めるだけではなく行動してなんぼだが。
基本的に、自分を信じないという姿勢で居ること。
外側には自信満々であっても良いが、内側では自己を常に疑うバランス感覚。
まぁ店長が課してくれた、おじゃんになっても良いけれど、時間がかからないようにしようというミッションはおじゃんにせずに時間もかけないという結果になってなかなか上々なのでは。
店長はこの辺シビアで、仕事上対価にならないことはなるべくしない方向で良いという立場。ちょっと仕事の仕方が店長寄りになってきたみたいだし、この辺の感覚は理解できてきたかも。
いやはや。
眠い。
何連勤が具体的に書くと労基的にやばそうだから書かないが、明日(もう今日)は急遽休みにしてもらった。
やばさの証左が休みが決まってから起きたから、休みにして良かったと実感する。
満月さんも若干巻き込んでしまって、満月さんも休みにしないといけないくらいポンコツになっていると評した。
酩酊と同じ感じ。
仕事が終わって家に着いたとき、家の鍵が無いことに気付く。
ここから、いったん会社に自転車で戻りつつ、満月さんに「本日鍵持って行ったっけ?」とLINEを送ったら、「持って行ってないのでは?」という返信がやってくる。
ここから本日の初めからやり直して、たしかに、鍵がポケットに入っているちゃりちゃり感が無かったなと。車の運転がしやすかったのもその為かと。もちろんこの段階ではどこかで落としたらえらいこっちゃのヒヤヒヤとセット。
仕事に注意が行き過ぎて日常の動きができないポンコツではあった。
私用のスマホもこの前仕事中に落として、悲惨に画面が割れている。アプリ漫画も想像力で補てんしながら読んでる。
この、シュレディンガーの猫ならぬ鍵の状況の中、記憶について考える。
部屋から閉め出されているから暖が取れないのだが、諸々の店舗をはしごしつつ、この時間で漫画をしこたま読んだ。こういう時間が空かないと漫画をいっぱい読む時間が作れない。
注意は落ち気味だが感覚は意識されているから、顧みた体感として、鍵がポケットに入っている音とか感触が無かったなと。これで鍵が家に無かったら、感覚がバグっているか、感覚を記憶として言語化する回路がバグっているかどちらかになって、人生劇場観が疑われることになるのだが、なんとか鍵は家にあった。
(満月さんが自分の鍵を取ったときにその下に僕の鍵があることを記憶していたらシュレディンガーには至らなかったのだが、仕事に行くときの注意は仕事に向いている訳で、僕はこれを落ち度とも思っていない。これを落ち度とできるのって、自分の落ち度を他人のせいにできること。僕はそんな人生劇場で生きたくないもんで。)
記憶は記録できるものなのか。
記録すれば外には伝播できるのは分かる。言語はもちろん、動画でも同じこと。
僕は言わずもがな日記の言語厨だから、記録として言語化している訳だけど、記憶を厳密に言語化している訳でもないし、そんなことはどんな作家さんでもライターさんでも不可能。
言葉は機能としてそこまで万能ではないし、映像だって着の身着のままのその人を記録することはできない。
倫理的にアウトだとか、下ネタだから自粛するのも然り、表現にはどうあってもバイアスが入って来る。僕も下ネタ的な種は記録上いっぱいあるけれど、別にそんなこと書いてもつまらないから書いていないだけ。
記憶を出来事ベースに表現すれば、なんとなく共通した経験がある人は通じるし、経験したことない人にも分かることができるようになる。
これはもちろん、言語なり映像なりの媒体を機能的に効率的に使っていることであって、攻めたり責めたりすることでもない。
問題は、この機能化されたところを自分の本質だと思い込んでしまうこと。
誰かに伝わる自分の前に自身の体感があるよねと。
僕自身、誰かに自分が伝わることがどうでも良い。これは誰かが一般的な相手には伝わらないだろうなという感覚を持っている部分が好きということ。
記憶は非言語領域にあるものであって、何か表現されたとしてもそれは二次情報でしかないという世界観で良いのだろうなという感覚。
誰か特定の個人の原典は当人が言語的に自己紹介したところとは別のところにあるように。
(だから自己紹介の記事はだいたい美味しくない)
僕も外用にはいくらでも自己紹介できる。
需要があれば書くけれど、自己紹介を書くのは供給寄りの言語化だと思われる。
自分をコンテンツにできる感覚がどうも分からないのだが、自身の人格も含めて仕事道具にしているという意味ではありなのか。
自分で在ることの確証は、あくまで当人の非言語領域の肌感でしかないような。
知らんけど。
ここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。