胡蝶の

 

 

 

20:58から。

 

やっと休みらしい休み。

休みの日まで仕事の電話をして大変だねとお客様に労っていただく。時間をかけなくて済むように先に先に予防線を張れるように準備するというのが、知識とかスキルよりも優先的に習得すべき事項なのかもしれない。

 

体力はともかく、注意力が持たなくなる。鍵を忘れるくらいなら笑い話だが、続けていけば笑い話で済まない落ち度によって即退場となるかもしれないし。

 

結局何か抜け落ちはないのかという意味で気が抜けることはないのだが、抜け落ちたところで休みの日にできることは無いのだがら、仕事事は等閑にしておくしかない。

 

いつの将来か不明だが、最終的には自分でコントールできる圏内だけで仕事をするようになれた方が自分にヒヤヒヤするだけで済むから楽だろうなと。使える資格を仕事しながらなるたけ取って独立するとか。

 

という感じで酩酊していきながら書いていくので支離滅裂になるに違いない。

 

(いつものことか)

 

さておき。

 

本日は満月さんと遊びに行って、牛タンを食べてきた。

肉厚の牛タンなのだが、歯ごたえがあまりなく、柔らかい。ほんのり中まで塩味が利いているのは低温調理しているからなのではとシェフワングランプリマニアの満月さんが予想していた。素材ももちろん良いのだろうけど、焼き具合が絶妙なのだろうな。匠の技。店長さんもシェフワングランプリに出ていてもおかしくないような風貌だったし。

 

ついでに、付け合わせのお新香がとても美味しかった。昆布だしベースなのだろうなと思う。味が濃い訳ではないのに、噛んでいると中から味が出てくる感じ。

 

あと、生ビールがキリン一番搾りなところが良かった。

 

明日は満月さんの実家でパーティが催されるのに参加する。明後日からまた仕事。明日日記を書けるかどうかは読めない。書くことは尽きないけれど、書く場がいつでもあるとは限らない。

 

もちろん、満月さんの実家って誰もが自由人で割と好きにやっているから僕が書いても良い場ではあるのだが、許容されていることと、実際にそれをできるかというのは別の話。

 

まぁ、日常って課すもの(努力)ではなく、単にするだけのことだから、できなくてもそこに何か罪悪感とかの精神的ペナルティが科されるものであってはならないと思う。

 

習慣付けって課すからできるようになるものだって風潮。たしかに課されている中で面白みを見つけてそのまま続くようになるということはある。ただ、だとすれば、もともとから楽しみを見出せたら済む話。課さずにただやってみて、続くようであれば続ければ良いし、続けられないのであれば、それと相性が悪かったというだけで良いような。

 

やれやれ。

 

そういえば、今朝起きたら昨日の日記がいつもよりスキが多く付いていた。だいたい0だからちょっと気になる。満月さんに報告したら、「シュレディンガー」という単語に寄ってきたのではという意見だった。たしかに、スキを付けていただいた人のページに行ったとき、明らかに層が違うというか、読まずに単に単語検索で自分のためにマーキングしにきたよねという人が居る。

 

この視界からすると、たしかに昨日の日記って語句検索してやって来られるような単語が多かったかも。これを再度書くとまた語句検索できるようになるからやらないのだが、こういう意味でも、読まれているかどうかは書き手には感知できない。

 

書く側がコントロールできることは「書く」という能動態だけ。これをバーチャルな読み手に合わせて変化させてしまうと、能動態だったものが受動態の「読まれる」になってコントロールから離れてしまう。

 

別にスキを付けて下さるのは勝手だし、僕もその徴を辿って読みに行って好き勝手にスキを付けるだけのことだから、別に倫理的な話でもない。

 

この点、古参の人というか、僕と相互フォローになっている人達は好き勝手に時々スキが付くだけだから、ちゃんと読んでいて自分に合う記事にだけ付けてくれているのだろうという推定が働くから気楽。こういう関係が人間味なような。

 

いや、実際やり取りしたことはほとんどないから、個人的に勝手にそう思い込んでいるだけなのだが、違ったとしたら修正するだけだから、バイアスでもない。思っていたのと違う人であるのが人間のデフォルトだし。情報だけで人を把握できるのであれば、もっと関係は円滑にできるようになっているはず。

 

 

日本酒に入ってきて、なかなか酔いが良い感じ。

 

ふと思い付いた。現実的な会話って話すと聞くがセットになっている。ただ、自分が話したいがために手番待ちで聞いているだけの人も居る。

 

世の中に聞き手が圧倒的に足らないから相槌の語録みたいなので聞いてもらっている気分になれるというお話も、きっと世の中の人は、自分の話を聞いてくれる井戸を求めている。アドバイスなんて要らなくて、ただ単に投げたら受け入れてくれるみたいな。

 

僕はあんまりそういう意識は無い。初期は井戸に投げ入れているように書いているなという排泄物を漂流させていた感覚があったが、今は吐き出しではなく湧き出しているものを余剰して書いているだけ。

 

これは、SNS文章勢にも流用出来そう。

読まれる為に書いていたり読んでいたり人とは、あんまり合わない気がする。

 

ここ割と致命的な感じだが、僕は読む人だもんで、それでも問題ない。勝手に読ませてもらうだけになる。

 

で、僕が書いていることも、勝手にやっていることであって、別に読まれたいから書いている訳でもないし、僕を見つけて欲しいが為に書いているみたいな感覚は皆無になってきた。

 

それでも良いなら読んでくだされというだけで、誰かに対して有用な文章を書いていく感じではないなと。相互の人も定期的に更新されないのであれば残している意味は無いのか。人としてどうかではなく、文章体としてのお話。

 

存在しているか分からない人に対して読む準備をしていても仕方ない。僕の視界圏外で生きているのであればぜんぜん良い。人生劇場とはそういうもの。

 

ということは、僕ももっと人生劇場上のこの場の方が大事よなと。

 

頭の中に残っているのと、現実とのバランス。

現実的になんともしがたい人を現実と同じ標準で見てしまうと、バランスが崩れる。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。