ぽぽぽ

 

 

 

紫の彼岸花がちらちらと見えるようになった。厳密に言えば彼岸花ではなく彼岸花科で唯一紫の花を咲かせるグリフィニアという種類。カシワバアジサイは表意的な名付けだから、名前と実体が連動しているが、洋風の名前は単なる記号でしかないように見えて、全然覚えられない。この意味での記号的単語は厳密に覚えなくてもいいような気がする。検索すればその花の画像が出てくるというところだけ有意。

 

厳密な言葉と曖昧な言葉だと、曖昧な言葉の方が面白いような。

 

 

 

さておき。

 

2日分の日記から。

 

日記を書き終えて満月さんが帰ってきって、実家に向かう。少し予定より遅くなったが皆さま起きていた。晩餐のために満月さんにはお寿司、僕には第三のビール1リットルを用意してくれていた。もうしこたま飲んだ後だったのだが、お母様と3人で深夜2時半くらいまで団らん。満月さん家の歴史を聞いていて、なるほど、人には歴史あり。内心情報は個人と一致しない限りプライバシーにはならないけども、詳細は書かない。

 

これを聞いていて思ったのが、僕の母親はこれほど僕と姉と妹のことを過去語りできるだろうかって。いやできるか。僕もいくつかは話した。

 

そうして朝起きる前に、満月さんとお母様の僕に対する雑談が聞こえてくる。聞いちゃいけないことだが、この話は書けたら後で書く。強くなったものだ。

 

出発。満月さんも弟勇者も身繕いがマイペース。これは別に悪口ではない。もともと待ち時間って凄い嫌だったし、相手が身繕いしている時間にいつでも出られるのにぐだぐだしていると、私が一生懸命準備しているというヘイトが出てくる。時間調整難しい。この難しさはズボラとか協調性が無いとかではなく、人生劇場における幕と幕の間が異なるだけ。他人というか、全体の幕に合わせるのが学校であり仕事。

 

助手席に座った姉(満月さんと)と運転している弟勇者のポケモン談義を聞きながらぼーっと過ごす日中。さわやかハンバーグと養蜂場とコーヒー屋さんに寄る。

 

帰ってきて来たけれど鍵が締まっていて締め出されるというトラブル。お母様とお父様が帰ってきたときに、食材が入った段ボールを誰も取りに行かないものだから僕が運んだ。これは功績ではなく、単なる幕の話。この一家、ちょっとラグがあるからそこを埋めただけ。気を遣わないからしているのがややこしい。気を遣っていたら一家の時間軸に合わすから。

 

その後はごろごろする2時間くらい。お母様がすきやきを作ってくれている。料理を作るのがしんどいと言っているのになんだかんだやる人。その行動に対して個人的にはお手伝いしようかとやんわり思ったが、一家劇場にあんまり関与してもいけないという常識が働く。

 

個人的に気になったのは、料理が完成した後、しばらく片付けとかで食卓にお母様がやってこない段階で皆で食べている感じ。どこにでもあるというか、うちの実家界隈でもあったのだが、そりゃあ何か孤独感があるわなって。こういう給仕が嫌になる気分は経験していなくても少しは想像できる。関係が希薄な感じがしてくるから。ストレスなのも分かりみ。弟勇者もお父様もご飯が美味しいって労う人でも無かろうし。

 

あぁ、食卓自体はとても楽しかった。お父様のノンアルコールビール第三のビールで乾杯して2人してぷはーっとなりながら少しだけお話した。観衆(お母様と満月さん)が無ければもう少し深い話ができるかもしれない。弟勇者は引きこもっていたが、この偏屈性は好ましいから正直に言ったら、両親どちらもほっこりしていた。そのほっこり具合を眺めていた満月さんが実家に居心地良くなって、もう一晩泊まるとなった。その後にこの感じで運転するのはしんどかったからと弁明されたが、正味どちらが真実かは知ったことではない。

 

僕の存在で満月一家の空気感が弛緩したのであればそれはそれで価値があるだわなぁ。

これを我が一家でやれるようになれば次のステップ。

 

個人的な経験則でしかないけれど、人の言葉と存在そのものはそれほど一致していないという説。読むべきは言葉ではなく存在であるという感じ。

 

これは思想レベルの話ではなく、かなり現実的な実体的な自分の話。

 

例えば、お母様は僕のことを弱いと評した。これって聞いたところで倣ってはいけない。実在が弱いって、生きていく余力が起こらない。ただ、この弱さはお母様の来歴から読むと、意味合いが微妙に変わって来る。自信がないから言葉では強気にしているけども、本質はストレスフルだから、割と弱い自分と類似みたいな。

 

ただ、この弱さって、自分を動かす原動力になりうると解釈もできる。たしかに弱いからこそ誰かに必要とされることを求めるという人格もあるが、ちょっと移動すれば、自己の人格が軟弱化だからこそ世界線が移動できるという説。

 

一昔前だったら、弱いって言われたら弱くならなければとなる。舞台を合わさないといけないから。言語で認証できる世界では生きていないのが実感であって、むしろ言語ではない関わりの方が関わっている気になれる。

 

弱いというお母様の評価はたしかに1つの視点から見た真理ではあるけれど、存在は1つの視点から見たところでは決まらない。もちろん、これで他人を決めることはできるけども、僕はそういう風に人は決めない。というか、決まらないからこそ人であるという定義。

 

あと、弱く観られているということは、闘う対象ではないということになる。

対等ではないということでもある。

 

僕は基本闘わないから、基本的に相手から弱めの立ち位置と錯覚される。

自己改変しているからどの時点でもちょっと過去の自分っぽい。誰かと闘うような自己存在は無いのが相手に合わす弱い人格だというのは解釈上ありうる。全然そうじゃないというのは誰に出すべきか。

 

ついでに、本日ハローワークに行ったあと、図書館に寄って来た。

ソシュールさんの一般言語学の講義録、やっと読めた。

 

いや、ソシュールさんの言語解析とてもおもろ。あと10回くらい読まないと理解はできないだろうが。

 

言葉が差異であるというのは分かりみ。ただ、差異で定義するだけだと詰まらない。これだけ言語分析した人がここに気付かない訳はないから、あえて余白を作ったのではないかとか。

 

人間ってままならないよなぁ。

 

でもここが良い。

 

自分と他人は存在的に差異ではない。

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。