だいごみ

 

 

 

21:14から。

 

 

なかなかだらだらしてしまった。

まぁ、たまには何かしなければという強迫観念から解放されてぼーっとするのも大事。

 

頭は回っている。

 

とはいえ、洗濯はした。カビキラーでお風呂掃除をしたら良かったのだが、特に年末のうちに大掃除をしようという感覚がないから平気。日常生活をタスク化したら終わりがなくて途方もない。一生することに対して意義とか理由を考えるのは悪手。だから免罪符みたいな媒介が出てくる。

 

日本人は無神論者ではなくて、神道信者であるという岡田さんの言があったが、たしかにそうかも。僕もちょっと初詣には行きたい。神道は信者に特に行動は求めていないし、他宗教にも寛容。儀式的な所作はあるけれど、別にお参りの作法を知らなくても怒られない。

 

クリスマスケーキを食べて年越しそばを食べるなんて、無宗教者だったらやらないはず。

宗教によるイベント事を気にしないのであれば、日常生活のまま過ごせば良い。時候とか時節を区切るのも結構宗教的な特色かも。

 

年越しそばはかき揚げが良いと結構ハードル高いミッション。

かき揚げ作ったことが無い。具材は余っているシーフードミックスのエビとあさりと、もやしと、買ってきた三つ葉三つ葉を天ぷらにしたら美味しいに違いない。

 

年越しだもんでまだ作っていない。帰って来るまでに日記を書き終えて、帰って来てから一緒に作れば良いかなと。

 

明日の朝ごはんには、おせちはない。くわいがおつとめ品になっていたからまた煮物を作ってみようかと一瞬思ったが、お雑煮作ろうかなと。お餅は送って貰っているし、冷蔵庫には人参がある。あと白菜ときのこを買ってきた。

 

お雑煮には味噌汁ベースとすまし汁ベースがあるらしいが、僕の実家界隈はすまし汁ベース。あえて明日は味噌汁っぽくしても良いくらいにお雑煮に対する固定観念は無いのだが、満月さんの実家はどっちだったっけ。

 

そういえば、昨日ちょっと飲み過ぎて(350×11)、日記があまり書けなくなったのだが、朝は満月さんと同じくらいに起きて、お弁当をこさえた。ニラ入り卵焼きと、鶏ハムと、白菜の浅漬けとゆかり振りかけご飯というシンプル極まりないラインナップ。明日にも作る気はあるのだが、いかんせんタンパク質の食材が足りない。

 

買う場合だと基本的に炭水化物成分が強いから弁当の醍醐味は、野菜成分とタンパク質がたくさん採れること。自分で買っている弁当はローソンのおにぎり二個だが、いくら卵の価格が高騰しても自分で作った卵焼きを持って行った方が安い。

 

 

神道の本ってなかなかない。探せばあるのかもしれないけど、天皇家の歴史とか、そういうことではなく、神道の世界観を説明している本が良い。手塚治虫さんの「火の鳥」の太陽編だっけ、がとても良い感じなような気がする。日本人って儒教が入って来る前から儒教的な作法もあったと思うし、結構よく分からない。

 

日本人であることを手放しで褒めるみたいな感覚はないけれど、日本人であって良かったのは、割と価値観が固定されていないこと。柔軟であるということではなく、生きて来た素朴の環境にそういう土壌があるのだろうなという感じ。

 

本日、満月さんがパワハラの概念が流入されたことは微妙なニュアンスを汲み取れない人が言葉を盾にして攻撃するようになってよろしくないという話をしていたのだが、たしかにそうだと思う。

 

言葉において語用を問題にする人とかもまさにそんな感じだし、そういう人は言葉からしか世界を読み取れない。

 

でも、もしかしたら言葉の外延のさらにちょっと外にある情緒をくみ取れる人だけが参与できるのがもともとの短歌とか俳句とか小説の世界であって、日本って言葉に関してはエリート主義だった可能性がありそうとふと思った。

 

識字率は圧倒的だったような気がするけども、言葉の意味って国語辞典のコードだけでは読み取れないし、逆に文法が等閑でも通じる言葉もある。詩とか。

 

満月さんは、自分に書くことを促すのであれば、自分が今まで書いて来たものを読んで評価してからだと言う。これって生粋の表現者な感じ。表現は書き手だけでは成り立たなくて、観測者があって初めて空間として成り立つ。ちゃんと空間に入って来てから言いなさいというのは正論。

 

 

さておき。

 

刑法の文書偽造罪のところを読んでいて、社会における文書とはなんぞやということを考えた。定義としては、個人の思想または観念が物体に表示されたものが文書なのだが、面白いのが、人格の齟齬を生じさせると偽造になるという下り。要は、作成者としての個人は分裂すると把握できないから、社会的にはアカウントは1つでないと困るという感じ。

 

たしかにここは分かる。

作成者が匿名である文書は文書偽造罪では保護されない。表現物としては著作権法の範疇だが、ここの保護ってどうなっているのだろう。ここも表現者は実在という前提だったっけ。そのうちAIがパターン認識してその人の表現かどうかを判定することになるのかもしれない。

 

個人的には著作権法の存在意義はあまり無いような気がしている。知的財産を個人の物として保護するのは過渡期でしかないというか。表現物の公共化は資本主義と食べ合わせが最悪。

 

 

やれやれ。

 

もう1つ考えているんのが、家族法の概念。いや、他にもいっぱい考えているのだが、文章化はまださせない。

 

そもそも概念上の家族ってなんだろうなというお話。

満月さんが来年くらいに結婚するかと聞いてくることとは無関係。満月さんの中で結婚に価値があるのかは知らないが、おそらく何か価値があるんだろうと思う。

 

僕は今まで結婚したことがないし、あんまり結婚しようと思ったこともない。

人の結婚は祝福できるけども、誰かと一緒に居続けることにおいて制度は別腹というか、外からの話でしかないし。

 

家族法の研究者のコメントPDFがあって読んだのだが、身近だったからそこに入っていったという理由が語られている。僕は全く身近には思えないのがこの法律群。

 

身近ではないから疎遠するということをしなくも良くなるのが大人の解放感だから、それでも読める。

 

僕が気になるのは、この制度をルール付けたことで、どういう利益が生じるのだろうということ。昔はどうだったのかは知らないけども、おそらく社会的に一人前になる為に結婚とか親子関係を形成するみたいなお話だったように思う。当人の人格とは無関係に外形によって承認される楽さ。

 

あと、変な話だが、結婚で言えば、いつでも離脱できる恋愛関係よりも、離れる為に手続が必要な結婚だと関係が続くという何か統計学的な思惑があるのではという説。だから結婚式みたいなセレモニーがある。

 

別に制度が駄目だと思っている訳でもないし、そろそろ我が母にももっと優しくしないとは思っている。

 

ただ、大人の醍醐味と繋げると、この世界が当たり前な訳ではないということ。

当たり前ではないからこそ母親との関係も縁だから、もっと構ってあげないとと思える。

 

まぁ、民法って権利義務の2元的な世界だから、夫婦も親子もそうなったらどんな権利があって義務があるかしか記述されていない。

 

ニュアンスは無限。

 

 

ここまで。

 

満月さんが帰って来る前に終わりました。

 

おやすみなさい。

 

良いお年を。