説明不足

 

 

 

実家界隈を舞台した、ミドリ色の粘土を食べる夢。なんだかグロいのであまり書けないが、本来は唾液で柔らかくする粘土を飲み込んで吐き出そうとしていた。指突っ込んで吐く手法は飲酒人生で獲得したのだが、そういえば、もともと胃腸が弱くて小さい頃、嘔吐下痢症になりがちだったし、車に酔って気持ち悪くなるということも多かった。変な味唾液が分泌されて飲み込むと余計に気持ち悪くなってくる。今はもうあまり車には酔わない。

 

起きたら若干鼻が詰まっていて喉奥から胃にかけて違和感があったから、この体性感覚がこういう夢を見させたのかと納得。夢でそうなのだから、覚醒時の気分も同じようなもので、ホルモンバランスと機嫌(気分)が連動するのも当たり前。虫の居所という言葉もある。

 

そうなってくると、人間って虫の居所の比率が多い状態を人格と呼ぶのだろうか。僕はあんまりそういう風に人を読んでいない気もする。そもそも普通は自分も含めた誰かをずっと記録できないし、傾向を前提に選びたい自他の印象を人格と決めつけているだけのような。頻度が低くてもインパクトがあれば人格として格上げされるだろうし。1回の失敗が赦せないとか。

 

結局のところ、誰の印象にも残らない状態の方が圧倒的に比率を占めているのだから、見えない部分が人の本質とも言える。

 

解釈次第としか結論付けられない人間論。

 

 

日常の景色と行動。

 

歩き方を意識すると、人の歩き方も良く見える。ヒールを履いている人の階段の登り方はつま先のみを使っているとか、この人の歩き方は典型的なもも前筋だなぁとか、同期の歩き方はひょこひょこしている。他の人との雑談をたまたま聞いたのだが、腰が悪いらしい。だからというか、それなら足を組んで仕事するのはバランス悪くなるのではと思わなくもない。僕も運試し場の終盤とか、移動時間が長くなって体が疲れている時に無意識に組もうとするが、同期は常に体が疲れているという説。単なる癖という説もあるが、体に悪そうな無意識の癖は止めた方が良いような気もする。

 

体に悪いとされていることを意識的にするのは問題ないとしている。それでどうにかなったとしても知らんぷりはできないというだけの効用だが、自分でやっているのだから受け入れられる。

 

 

本日は自分が知っていることと知らないことの境界領域みたいな問題が多くて面白かった。調べたり検証したりすることに苦痛が無い。ほぼ失敗の領域だが、失敗というより実験という言葉を当てたいところ。

 

お姫様先輩が先生と話していて、体感に対する記憶力が強くて凄いなぁと思う。他の人もそれぞれ凄い。どんな人もそれぞれ凄い領域があるという景色は原風景だったのかもしれない。ただ、誰もそれで良いとは教えてくれないからずいぶんの間閉じていた。

 

凄いという言葉の語用でも、自分にはできないという意味で遣われることの方が多いような気がする。ただこれって、外を見ているのではなく世界と比べた自分への言葉だから、こういうニュアンスで遣われるとなんだかげんなりする。ちなみにAB型は凄いという言葉を多用する傾向があるらしい。僕は素晴らしいとか良いこっちゃとか細分化して扱っているが、要は自分と連動せずに世界を対象化して凄いものは凄いとするだけ。

 

血液型が人格に影響するのか問題は個人的には眉唾だが、AB型って珍しがられたり、二重人格、返事とか言われて成長していくから、人の集団からは異質であると世界を捉えながら生きるという意味で言えば、もともと切り離されている自己と世界を自分を前提とせずに捉える素養はあるのかもしれない。

 

まぁ僕はAB型でなくてもこういう人格だったような気もする。

なにせ小学校の男子4人中3人がAB型だったし、AB型は異質な人ではなかった。4人しか居ないんかいというツッコミは田舎の辺境ではままある状態と返す。2つ上の姉の世代はいっぱい居たからベビーが豊作だった。

 

なるほど、こんなにちんまりした社会が最初だから、個別的に人間を捉える節があるのか。

知らんけど、原風景ではあるのか。

 

お昼休み。

相変わらずのいい天気。お弁当のメインの豚肉炒めの人参を太く切り過ぎて火が通っておらず、ぽりぽりとした食感。光合成しながら生焼けの人参をぽりぽり。

 

その後も相変わらずの立ち読みタイム。別にお風呂読書の無知の塔に何かを追加するつもりはなかったのだが、あまりにアピールしてくるから買ってしまった。「数学と人間」。数学史は結構読んで居る気がするのだが、数学を世界の解釈とするというか、社会的な知識というコンセプトで書いている本は無かったから、楽しみ。まずは古代。捉える自然を測量する道具として開発されたという部分だけは読んだ。今は測量をする必要が無い。アプリがやってくるし。最終的には物事の抽象化ということになりそう。概念を測量する段階。

 

 

そうして仕事の午後の部も終わり、帰宅。

スーパーで行列。本来レジをしてない人も駆り出されていた。循環で考えれば、買う人が居ないと始まらない物流だが、そのうちバックヤードで商品を補充することが始まりみたいなことになるから仕方ない。買う人も自分が流れの一部なんて感覚な一切ないだろうし。

 

帰ってきて、この前満月さんが自分がやって来るときは掃除しないのに業者がやって来る時は片付けるのかと発言したことがエコしてくるものだから、通常時でご飯作りながらお風呂とシンクを掃除した。別に整えていないと関われない人ではないから、単なるお迎えみたいな感覚。個人的には食生活領域は毎日可動しているから周期的に片付けるが、生活領域ほこりにまみれても全然気にならないし、これくらいで断念する人だったら今後の生活は在りえないとなる。満月さんはいけるらしい。まぁ共同生活になったらもっとまともに分担はできそう。できるけどやってないというのは言い訳ちっくだが、やらせられるのが嫌なだけで、意識的な行動は得意になってきた。自壊するような行動はしない。

 

誰かの主観が僕のことを客観的に見れば自壊行動しかしてないように見えそうなのはともかくとして。

 

やれやれ。

 

本日も1時間くらい。

 

小説家の人が文体について書いていて、文体は自分そのものだから削ったり他人をなぞったりしてはいけないというニュアンス。

 

たしかに、文体は肉体と同じようなものだから、問題とすべきは動いているかどうかだと思われる。言葉って固定値みたいなところがあるから、固定的な情報として書かれることが多い。動きがなくなった単なる記録は面白くないし、動いている風で、ただの現実描写の動きしか書いて居ないのも当人が不在な気がする。

 

 

あくまで僕の読み味なので一般化はしないしできない。

 

非言語で動いているから文体でも動ける。

 

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。