自家発電

 

 

重くなったり軽くなったり、心は難儀なものだ。

 

 

冬の早朝は肌に痛くて気持ちいい(Mでもない)。視界にある車のフロントガラスに氷が張っていて、さすが二月。霜柱をさくさくしたいけれど、都会のアスファルト敷きにはない。小さい頃は感触と神秘性を感じていた霜柱や氷柱も、いまは土中の水分や空気中の水蒸気が凍結したのだと分かっている。虹とかもそうだが、神秘だと思っていた光景に化学的説明があると知ったところで、もともと感じている美しさは変わらないと想う。

 

経験を経て物語とか事象に楽しめなくなるという話も聞こえてくる。ほんまか、というか知った気になってしまえただけのような。もともとの興味とか不思議とか面白みは、メカニズムが分からなかったからそう感じたはずがない。

 

知覚的な適意と心理的な適意は経験の前にも後にも在る。

 

 

 

さておき。

 

軽くなったことに重くなる心の動きが難儀で面白い。

社会規範的なラベルが貼られた感情からふよふよ。こちらの方が目的と結果を気にしない、きちんと人を好きで居られる。

 

仕事は繁忙期の残業デー。女性上司が残業なく帰ってええで、と言ってくれたのだが、他の上司に押しとどめられた。派閥に入ったのか? めっちゃ仕事しているから早く帰らせてあげたいという発言は、なるべく上司に仕事回さないスタイルがバレているのか?

 

楽しんでいるにせよ、時間縛りだから仕事時間は短くなればなるほど良い。

 

最近は隙を見て法律の条文を眺めながらしている。

あんまり分かってこない、思索に上がって来ないのは、単純に読みが足りないのではという試行。真面目に仕事したところで反応が鈍るというか知識()の引き出しに融通が利かなくなるので。

 

こういう感じで全然善人でもなく真面目でもないが、正直では居たいところ。

 

あと、よく分かってないという原因で起こる反旗みたいな感情は、分かってからにしようかと窘める。

 

世界ってそんなに汚いのかな。

普通の意味で、衛生上の不潔ではなく、潔癖とか未知への恐怖も含まれているような。

 

資本主義も法も労働も、何か変だなとは思うが、汚いとは思わない。

不公平さが汚いに変換されているのかもしれないけど、他人が得ているものを自分が得てないものに直結するって、何か変な連帯感のような。

 

ちなみに、法の下では人は平等というのが理念だが、どういった属性で括るかによって結果は変わるから、何をもって平等にされたいかによって不公平と感じるかどうかも変わる。

 

そういえば、僕は人の属性もよく分からなくなっている。

その人が「その人」であることを読もうとすれば、年齢とか性別とか趣味とか決まっている現実的振る舞いは衣装みたいなものになる。

 

決まっている現実的振る舞いというのは、パターン化された現実の所作ということで、ほとんど意識なくされている。このタイミングで席を立つとか、発言においてここから入るとか。自分に視点を置いてここを見るとなかなか凝り固まっておるとなる。だから細々変化させてみている。

 

この所作を意識的に変えてみる遊び、面白い。

 

いまやっているのは、コメントでやりとりしてみるとか、人は失敗するのものだから自他の失敗に重きを置かないように常に意識するとか。後者は現実的な効用があって、心が身軽になる。

 

そうして身軽になった心に対して、いや、もっとしんどく在るべきだろうという学習で津創られた心が足を引っ張ってくる。いや、知らんがな、と反発してしまうと内部がややこしいことになるから、浮いたり沈んだりはそのままにしておいた方が良い。操作しようとすると逆襲に遭う。

 

そんなことより。

僕が面白いと思う文章の味。

 

共通項はないとしていたが、泉鏡花さんの物語を追えなくてもただただ綺麗みたいな文体から、ちょっと想うところができた。

 

mixiにお友達でもなくたまにやり取りするくらいの人が居る。文章としての作法で言えば書き殴りだろうから意識されてないのだが、なんともファン。

 

タックル(隠語)生活の話を書いていたのがなんとも良かった。

別に僕がそのタックル()生活に参加したいとかできるとかはなく、表現として。

 

個々のシーンがきちんと読めるのは、当人がきちんと自分の知覚で世界を見ているから。

ただの欲求の解消の為に使うということでもなく、相手をきちんと他人として捉えている感。そりゃあモテるわという感じ。

 

自暴自棄の世界観と一般論のバランスも良い・

 

やり取りして、なにか嬉しいのは当人の世界に含められた僕ではなく捉えてくれるからなのだろうなと分析している。体調気を付けてみたいな発言は、それを言う当人が良い風に評価されることを求めている訳ではなく、ただの他人として慮ってくれているから。

 

言葉をきちんと自分の道具として扱っている感が良さげ。

 

ここまで書いておいて念押しだが、あくまでタックル生活に入りたい訳ではござらんので。笑

 

こういう切り分けができていて、なおかつ言葉に振り回されずに自分の知覚を表現している文章が美味しいのだろうな。言葉は誰かが読むものであるという前提の中で、言葉で自分を遊んでいる人。

 

僕は思索で迷っているような文章を書いているのは自覚している。ただ、実生活で独り言をぼやく訳でもなく。単にここが書く場だから色々書いているだけ。決断は言葉で考える前に終わっているし。

 

実生活で精神界からの影響を受けてくよくよしている暇があれば実践した方が良い。

ここはあくまで精神界。でも、僕は現実世界の人の所作的存在より、精神界の方が人の本質っぽいと思っている節もあり。

 

何を当人で知覚しているかは現実的振る舞い(所作)では読めない。

文章とか絵とか演劇の方が何を知覚しているかに限定すれば分かりやすい。

 

で、ここには発展形があって、人を使いたくないという僕の思想もただの自己限定で、もっと遊んで良い。

 

有効活用したところで、結果的にはあまり変わらないような。

 

好きな人に何かしたいというところも、別にしていることで自分が満たされるみたいな自己満足への補給になるのではなく、単にそうだったら人生上嬉しいだろうなというくらいでしかない。誰かが居ることでエネルギーになるという思想は理想だがその誰かをエネルギー源として使うだけになりそうで、なんか嫌だ。

 

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。