形質

 

 

 

人のことは一生分からないとすると、どれだけ長く近く過ごしても程度問題というか、ほとんど違いがない。であれば、どういう風に人を読むかに制限はない。

 

 

さておき。

 

今日はカレーを食べ、TKGを食べ平日で蓄えた冷凍ご飯を消費した。あと、本はいつも通り読む。フリーソフトの将棋を1日1局してみたが、少し考えられるようになってきた。本当に考えることが苦手だ。考えを深めて何処かに辿りつくということができない。直感を文字化しているに過ぎないのではないかということを常に思う。

 

あくまで「読む人」でしかないのだろうな。自分の言葉というものがないような気がしてくる。

 

僕は素朴な自分の見解を、特に固有のものとはしていなくて、色々読んだら自然とたどり着く水準くらいのものでしかないなという感じ。気付きに際限がないのは、おそらく自らの空虚性に起因している。別に好奇心とか向上心ではない、最初の人格形成が終わらないだけ。たぶん一生こうなのだろう。

 

物理的ではないが悪くない方針ではある。ということは、外からの自分がどうであるかは余所行きの服みたいなことでしかなく、もっと読めるところに行けば良い。一応、そろそろ決めてしまおうかという2年後がある。関西圏から離れ、地元にも帰らず、ちょっと過ごしてみたいところ。まぁ、読むことは今やどこにいてもできることだから、どこで物理的に過ごしているかどうかはあまり関係ないことだが。

 

「読む人」であって、「書く人」ではないのはずっと違和感があったが、やっと吹っ切れたところはある。伝えたいことがないのに書き続けているのは、あくまで、自分がもっと読めるようになる訓練みたいなものでしかない。と考えると、僕が文章を書くときに「架空」だとしても読み手を必要とする意味が腑に落ちる。だから、読み手が意識されていない文章を読むのも苦手。例えばこういうところで言えば空白行がないとか、視覚的に整っていない文章はどれだけ良いこと書いている風でも読めない。専門書であればそういうルールだから問題なく読める。

 

書物というメディアから見ると、大学はこれを生産する場なのだろうな。研究の成果を体系的文字情報に還元する。という意味で言えば僕の文章はこっち寄りかもしれない。専門家が一般向けに書いている書物みたいな。別に何の専門家でもないが。

 

要は、もはや書いても書かなくても問題がない。内心をどれだけ書いてもきりがないし、自分の中身が通ってきた人とか物をどれだけ再現しても全然色あせないし。

 

キリスト教が世界に浸透したのは、論理的に脆弱であって文字メディアによって補強されたからだという話があった。確かに分からなくもない。日本でもそういうのあったな。あれは文字メディアというよりテレビを媒介にした情報メディアだったか。自分が生きている世界の理路から外れた何かを信じたい心はどの時代にもある。そもそも自分が素朴な土台としている理路を再検証する動機なぞなく、無批判に受け入れたシステムには何か怨嗟が生じるのだろうという想像。

 

僕は、近しくなった人から新興宗教にハマりそうみたいな評価を受けたことがあるが、だいたいのことは半信半疑で信じている感はある。ただ、宗教に化体したビジネスは良くない。いや、それで救われている人も居るだろうから、一概には言えないが。

 

なんだかもう、自分の中にある話題を共有することが嬉しいとも思えなくなった。僕を読む人が気になるのは、僕と通じているかというより、その人を読んでみたいという感覚であって、何かが通じているだろうという動機もなく。人の領域には当然共有できるものもあるが、個人を突き詰めたらどうあっても誰とも共有できない部分がある。だって、肉体が取っている場はその人だけのもの(厳密に考えれば時系列的には重なることはできる)で、その人の経験はその人しか経ることができないもの。言葉で抽象化すれば共有できるものになるし、喜々としてやっているように見えるが、僕はそんな部分は読んでいない。

 

長く近く過ごした人のことが分からないというのも別に抽象論ではなく、実地。母親の中身は全然分からない。結構な読書家だったということは分かったが、あくまで僕は彼女に取って保護すべき息子でしかない。関係に名前が付いたら、当人に付着したイメージを前提としてしか捉えらない。

 

そういえば、一番長く過ごした恋人さんがそんなことを言っていた。自分は交友関係断ち切ってここに来たのだから恋人であり友人であるようになれみたいな。当時は良く分からなかった。まぁこの人が僕のまぐわい論を一変させた人でもある。肉体をどれだけ重ねたって心も重なっているとは限らない。

 

 

そういえば、この辺りに良くカラオケで歌っていた失恋の歌の歌詞に、「もしも願いが叶うならば出逢う前の2人に戻して」みたいなのがあった。確かに客観では僕に出逢わない方が良かっただろうなと思うが、主観ではどの人も僕に影響を与えた人だから、無かったら良いなぞ思っていない。全部大事な人達。

 

もうそろそろこの形式での文章はおしまいな気がする。

 

おやすみなさい。

 

 

文字の効用

 

 

「人は信じたいものを信じる。」では、信じたくないのに信じざるをえない存在を目の当たりにしたときはどう扱えば良いのだろう。

 

土曜日という区切りにあまり意味も持たせない。早朝から包丁を握って玉ねぎをみじん切りしてキャベツをちぎり、ほんだしと砂糖と生姜と塩昆布で味付けをした雑炊を作る。また漫画を一気読みしたり、最新刊で最終巻も読んだり。どんな物語も最後はあっけない。あっけなく終わらせたいのに、全然終わらせてくれない物語もあるが。

 

本日はまどろこっしいことは書かない。文章の扱いがおかしいことを「人類と哲学」から発見している。ずっとあった非言語的感覚が、可視化されてきているという意味。

 

もともと学校の時、ノートを取るのが苦手過ぎた。ノートとかメモって自分の考えをまとめるというより、板書を写すとか、情報を外で整理するということであって、自分の中に置かなくて良い参照できるデータとして持ち物にすること。個人的な解釈として、僕が自分のノートとしての文字を読み返すのが嫌だったのは「字が汚いから」だったのだが、そうでないみたい。なにせ、誰が書いても同じカタチの文字でも読み返す気にならないし。

 

プラトンの文字にまつわる概念に、「記憶」と「想起」という概念があるらしい。昨日の日記の続きみたいな話。音声言語でやり取りしていく中で現われる「あの日」は良い記憶で、文字言語は記憶を想起するきっかけに過ぎないらしい。全面的に賛同できないが、一般的には分かる。人と話していて何かを思い出すということはままあること。ただ、この思い出したことって、留められない。たまたま無意識が波打って現れたものでしかなく自分にそういうものがあるという影みたいな印象だけ残る。こういう意味で、文字メディアの永続性を利用したものが、「記録」という外在化だろう。記録したものは、自分のもの=自分の存在の拡張メディアになる。それを中で再現できるかどうかを問わず。そうして、これがノートの価値にもなる。

 

こういう外在化というスタンスだから、人は自分のことを文章で書くのが苦手というかエネルギーを使うものだとしている。書いたものは自分であって永続性が保たれるものだからちゃんと整えなきゃって、余所行きで高尚な自分のものになっていない言葉を使ったり、本心でないことを書いたりして、虚飾してしまう。まぁ文章は芸術の一種みたいなところがあるからこれはこれで美味しい。

 

ただ、何かの話題に対する反応というか、評価としての自分の文章を公衆メディアにするのはどうなのだろうな。確かにとてもお手軽というか、音声メディアを公衆メディアに還元できて、自分が拡がった気分は味わえるのだろうが、プラトンの「ほんとの関心事は言語化できない」という概念を持ってくると、どれだけ悲しんだり憤ったり同調しているように書かれていてもどうも安っぽく読めてしまう。

 

また、別の本なのだが、「脳は人ではない」(2周目)で、「意識で捉えた現象は共有されないと本当かどうか分からない」という観念をさも自明としている。分かる。確かに、最初の意識は真似びで創られるだろうし。ただ、自分の意識が他人に共有されないと存在しないみたいな曖昧にまどろんだまま一生を過ごして良いのかという話。

 

フィクションと読まれても問題ないが、僕は自分の意識をだいたい16時間体制でモニタリングしている。社会でも他人でもなく、自分が自分を監視しているということへの移行だが、僕は自分を評価していない。ただ見ているということ。ただ見続ける存在というのはとても在りえなくて良い。人がそういうのを求める気持ちはとても分かる。モニタリングしてみて自分の意識は別に誰に共有されなくても在るし、自分にとっては触れなくても自明である。無駄に人に迷惑をかける衝動を持ち合わせてなくて良かった。

 

で、プラトンに戻ってくる。文字メディアの続き。いやプラトンが書いていたことではなかったかも。僕にとっては誰が言ったかなんて関係ないからどうでも良いが。

 

文字の効用は、同一化ではなく思考化みたいなところとのこと。物語の登場人物と同一化するのではんなく、その人について考えるようになる。自分の世界観の中で都合が良い同情ではなく、世界観の外のことを考える。

 

僕が同情的な言葉が嫌いなのはこういうこと。職場の雑談グループの人と話していて、僕が実家に何年も帰ってないことに対して、このご時世を言い訳にして言ったら、「それは寂しいことだ」と評される。こういうのが同一化のスタンスだと思われる。他人の事情なんてどうでも良く、自分の世界観で人を捉えること。こういう人に、僕の中身を開示する意義を感じない。

 

いや、これは圧倒的大多数派の捉え方だとは知っているから、合わせて開示情報を調整するしかない。料理がしんどいものだとしている当たり前の世界観に僕は異分子だし。

 

要は、考えるという概念は、自分が受け入れらない当たり前ではない外に対するものであって、内側で理由を繕うためのものではない。これを屁理屈という。音声メディアの一種だと思われる、自分が現実化してしまったものは理由を言語するしないの話ではない。

 

ここ3日くらいメディア論の帰趨について考えていた。メディアではないものってなんなんだと。最も広い意味の「人を作り変える表象」からすれば、人がメディアではないものになるのだが、もうちょっと細かく書かないと意味不明だと思う。

 

自分と世界をちゃんと峻別できない人には難しくなってくるが、変な話、自分の肉体の経年推移もメディアの一部だし、この一部に気付ければ、世界がそれほど固定された客観的なものではないということに至れる。至るかどうかなんて知ったことではないが。最終的には、メディアではない存在って、メディアを対象にできる自分ということに至るのだが、ここまで主観的であることってとても難しい。

 

この文脈で宗教が公衆メディアであるということもとても分かる。

キリスト教が爆発したのは、きっと当時の社会的な規範が窮屈だったから。当時の人の語彙で分かるような言葉だったと想像できる。

 

人は自分の世界観を自分で判断できない。何故なら、判断できる対象としていないから。

宗教も社会も常識もほぼ変わらない。今の人は識字率も文字も書けるけど、だから自分について考えなくても良くなっているのだろうな。個人的な持論だが、自分の事を突き詰めてない人が他人のことを大事にできることなんてない。現実的にはできるだろうが。

 

世界が客観的だと思える人って、原始宗教よりもっと宗教的な世界観で生きている気がする。自分はどこにいったんですかって聞きたいけど、聞く気もない。

 

ではおやすみなさい。

 

 

 

判断

 

 

 

悪いことは先に考えておく。想像力の効用。

 

読んでいる「誰か」を気にするのは、僕の言語がそういうものだから。僕の言語の上限みたいなところがある。月との距離がとても遠く感じる今宵。

 

ふと気づいたというか、現れた言葉。「十分苦しんだだろう」

面白いことが起こっている。

 

さておき。

 

語彙が固有になってくるとあまり綴れなくなってくる。

言葉は遅くて遠い。ともあれ、書かないと存在できない。

 

本日は、世界の秘密に気付いたような1日だった。自分の秘密がすなわち世界の秘密に等しい。スピリチュアルみたいな話ではなく、もっともっと物理的なこと。気付ている人が物語に化体して書かないといけない気持ちがとても分かる。ストレートに言語化できるような領域ではない。

 

しかし、僕はこういうことを素朴に書きたかったので書いてみる。

 

真面目とか本気とかは外からには見えないが、主観的にはその目的で行動に起こすことに価値があるらしいというものさしで生きてみたが、そんなことは主観的にもどうでも良いことなのだろうなと気付く。真面目を目的にしたとしても得られるものは変わらないし、この真面目は結局自分ルールに過ぎない。自分で自分に義務を課しているだけ。これは別に倫理とか社会性とは関係ないその人固有のルールでしかない。他の人がそういう風に過ごしているからと言って、必ずしも自分の中身をそうルール付けする必要はない。

 

むしろ、遊びの方が真剣にするのが人だろうという転換で、人生そのもので遊べば良いとなってきている。日本語の「遊び」の語義にある要素よな。「遊び」がない張り詰めた糸は容易く千切れるし、ほかの方向にはいけない。

 

やっぱり言語化するとありきたりになってしまうのだが、僕の場合は、自分自身についても遊んでいる。例えば左手の可能性を実践してみるとか。左手で文字を書くと癖が全くついてないから自分で教育できる。字は汚いが気にすればなんとかなるような気もする。

 

この文脈に「十分苦しんだ」というフレーズも含まれる。人を傷つけたことに対して勝手に至らなかったことして、自傷している訳。僕が誰かに対して異分子というか世界観に組み込めない人なのは分かるが、そんなことは知ったことではないで良い、はず。

 

もっと遊んで良い。少なくとも1人で居るときは。

 

ここからすれば、他人が僕を自分の立ち位置上どう扱っているかみたいなこともどうでも良い話よな。僕の存在によって自分を卑下するのであれば、たぶん他でもやっているし、それに引っ張られる必要はなかった。比較されないためには突き抜ければ良かったのだが当時は突き抜け方を知らなかった。そもそも誰かに評価されることで変動するのは自分なのか、なんて言ったら顰蹙を買うだろうからやらない。

 

 

引き続き、言語の話。

 

世界文化史のイギリスの作家さんで、上機嫌は最高の作法だとか笑顔は太陽だとか、「愛する人を得るのは至上、愛する人を失うのはその次に良い」は全面的に賛同できる。前半はそれ風の言葉を発することではなく、ある意味遊びの領域。こんなの本当にそうであるかを把握できるレーダーはちゃんと人を見てない限り搭載されない。声色とか表情でしか認識できないもの。というか、人がそうであるかなんて気にされないのが普通。不機嫌の方は危険かもしれないから敏感になるのは当たり前。

 

そうして、まさかプラトンさんと同じことを考えていたとはというところに至る。

 

ソクラテスは対話、ないし発話に人の本質が見えるということだったらしい。この人自分の文章残していないからなんとも判断つかないのだが、たしかにカウンセリングみたいな意味ではありうるとは思う。ソクラテスメソッド。発話した言葉に対してなんでそう思ったんですかって詰めていく会話。そんな会話普通ではないけど。

 

で、ソクラテスの事を書いているのがその弟子のプラトンなのだが、音声言語を至上としたソクラテスのことを言語化するのは背理なのではということがあるらしい。

 

で、当のプラトンは、言語化されるものは本当の関心事ではなく、言葉に丸投げできるようなことは表層的なものだと書いている。言葉という道具によって、人は自分の中のことを思い出せなくなるという見解はとても分かる。細部はともかく「思い出」という言葉に丸投げすれば、自分の中に記憶が存在しているとできるもの。これは外部媒体という意味だから、写真とかも当然含まれる。

 

僕は文章を毎日書いているし言霊の力も分かるが、自分の表現として言葉に丸投げはしていない。

 

言葉では自分を表現できないという見地は、他人の言葉はそれほど信頼に値しないとセットになる。よくも悪くも。一般論は言葉は自分の表現としているから問題ない。いや、そういう世界に生きられないのは大問題だが。

 

あと、僕は時系列の人の存在を言葉としては見ていない。これは割と普通のことなのだろうが、いや、違うか。言葉として見ているか。自分の中には言葉はないが、言葉にすることによって他人と共有できるようになる過去なんて、もはや当人のものではない。ただ、その人を眺めていると、その過去が当人にどういう影響を与えてきたのかは見えてくる。見えるだけでどうこうするつもりはないから見えるのだろうか。

 

そうそう、交友関係が広い人に不信感がある観念。僕が時間をかけられない多数の承認より影響を与える個人に重きを置いているから。それなりに過ごした人は全部外界の人ではない。なんで、てきとーに扱っている人を親しい人とできるのだろうという素朴な疑問。現実世界では言ってはいけない禁忌。

 

という感じで、僕の言語は、ただの一部の垂れ流しでしかない。

排泄物ではない流通物だから体裁は整える。個人的な自分はここには居ない。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

表し方

 

 

 

何かイライラしていた一日。当然このイライラは自分に向いているから色々と考えていた。というか、ここ1年くらいになるか、ほぼ寝る時以外は何かを考えている。意識を意識しているというか。

 

「考え」は「感情」を矯正するのかということを考えていた。「感情」と「感じ=印象」も違う。でも、もはやこの言葉の分け方は一般的ではないのな。

 

自分が弱いのか、強いのか。

 

さておき。

 

夢で学校が舞台なのが多いのは最初の監獄だったからだろうなと思う。まさか夢でさえ会えないと思っていた人がたくさん登場してくれている。凄い存在感だ。

 

監獄という概念は、フーコーから持ってきたけど、別に閉じ込められた不自由な世界という意味だけのものではない。「規律=常識」の学習装置という意味がある。社会の作法と感情の扱い方を学ぶところ。僕は不自由性を感じていたが、まともな人はとても馴染めるはず。馴染んでしまえば、あとはそこでできあがった「自分」で生きれば良い。今でもよく夢に見るというのは、再構築というか再整頓みたいなことなのかもしれない。こういう何も意志を必要としない関係というのがどうも馴染まないから、世界観を創り直している。

 

ともあれ、頭の中の世界で引きこもって嫌だ嫌だとなっている訳でもなく。自分がここまで怠け者ではななかったのかと、ある意味観劇(これは誤字ではない)。なんだったのだろうな、あのまとわりつくような行動に起こせない重み。感情に引き直すとやる気が起きないだったか。また事務処理。課税証明書が要るが、平日休みがないしソーシャルディスタンスだしで、郵送で請求することにし、昼休みに定額小為替と返信用切手を買い、申請書はネットワークプリントからコンビニで印刷し、ついでに免許証もコピー。帰ってからすぐ洗濯機を回しつつ(週末雨という噂を聞いたため)、書類は15分くらいで終わらせ、後は本を読んだりもぞもぞしたりで、平常のお弁当を作り、読書をし、今の時間。

 

頭の中の世界と現実にはあまりズレがなくなってきた。やる気の概念が完全に排除されるまではもう少しかかりそうだが、やっぱり一般の語用というか概念には不要なものがいっぱいあるみたい。皆必要としてそうだからやってみたが、合わなかった。

 

やれやれ。

 

冒頭に戻ってきて。「考え」と「感情」と「感じ」の話。自分の感情は正しいものだとしている、というか、「自分そのもの」に近いものだとしている人は多いだろうが、たぶんそういう人でも他人の感情を忖度するということはあまりしていないように思う。確かに、感情を言語にすれば共有できるものになるし、なんとなく繋がるが、あくまでなんとなくでしかなく、もともとの感情はとても主観的で個別的なものでしかない。よくもまぁ。

 

公園でお弁当を食べていると、小さい子供が遊んでいて、よく転んで泣いている。それそれはよく転ぶ。これは頭の体の重さの比率が歪だからバランス取れてないのだろうなというのはともかく、観察していると、とてもわざと泣いているなと読める。この「わざと」は悪い意味ではなく、自分が泣くことの効用を認識した上のことだということ。感情の最初はこういうことだとすると、感情は当人の主観というより、社会的な共有のための学習みたいなところがあるような。自分が嬉しそうにしていれば周りも嬉しくなってくれるのであれば、そういう感情が発達するし、それが自分になるだろうし、逆もしかり。自己省察。僕が人と関係していて感情的態度を取っていたのは、相手に対する反応みたいな意味合いでしかなく、素朴な自分というよりは関係上の自分という気がする。

 

これって、大人が自分として依拠できる程のものなのかという疑問。

 

僕は共有されない時の方がよく泣けるし、儀式で泣けてくる(結婚式とか)のも分かるが、なんともしっくりこない。

 

感情をストレートに表現できることを人間なのだとすると、感情表現がうまく見せられない人(僕もこっち側)は人間味に欠けるということになるが、僕からみれば感情に依拠して生きるのは人間味がないような感じ。

 

「感情」は社会的なものだから仲間外れにして、「考え」と「感じ」は相関がある。知らないものは見えないのは当たり前だが、情報は「考え」を経ないと世界にならなくて、世界に対する反応が「感じ」だから。

 

この話はあくまで僕の中の概念だから、他の人にとっては違う言葉が当てられているのかもしれない。「考え」には経験も含まれるが、経験だけでもない。能動的に意識するとか、自分とは離れたことを意識的に想うとか。ただ、自分が行動したことに理由をつけるということとか、自分の中身を都合の良いように言語化することは含まれない。これだと世界はなんにも明らかにならない。

 

そうやって、「考え」たことが世界の景色に還元され、その見えたことが「感じ」になる。それは違うっていうメンターが居ないから、頭打ちになるまでは継続するつもり。感じが間違っていることは当然あるが、別に照らし合わせるものでもない。

 

本の話。

 

リア王からオフィーリアが勘当された意味は良く分からないが、自分が当たり前だと思っている価値観は排除したいってことなのだろうな。夏目漱石の「こころ」にもでてきたやつ。全然昔のことではない。誰だって自分の当たり前の世界観を壊す存在は排除したいし今も皆やっている。

 

音声言語と書き言葉の違い。

 

人類と哲学で、言葉の起源になっていて、滅茶苦茶美味しい。

 

音声言語は、昨日も書いた、人が弱い存在だから連結するために作られたのではないかという説。自分の中の物語を共有して仲間を増やすみたいな。職場で尽きない雑談を積み重ねているのを聞いているとなんとなく分かる。話すことで自分が在ると思い込む。あんまり関わりたくないグループなので、あんまり自分の情報は開示しない。

 

ただ、発話言語の最初は、みんな人に自分の中を話すし、聞く側も真剣に聞いていたのだろうなと想像すると楽しい。環境としてのメディアに人の言葉が採り入れられた当時は興味津々だったろうなと。

 

書き言葉の方は、会計学みたいなところからではという説があるらしい。客観情報を誰にでも分かるようにするための発明。起源が全然違うという説はとてもしっくりくる。

 

日本語は言文一致政策で発話と書き言葉が同じになった。でも、僕の中では完全に別物になっている。話すようには書けないし、書くように話せない。何が違うかというと曖昧なところがあるが、発話は肉体に連動しているが、書き言葉は精神に連動しているという感じ。どちらも世界への挙動という意味では変わらない。発した時点で中身からは離れる。

 

この違いは、僕の中ではとても大事なこと。

 

では、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

拡張

 

 

 

何故、比べられるのが嫌のだろうと職場のトイレでふと思う。低く見られる分にはまぁ良いのだろう。ただ、自他を卑下するために僕を引き合いに出されるのはとても宜しくない。引っ張られてしまう。比較で見るのはとても分かり易いが、比較がデータベース依拠ならまだしも結局天秤は主観なのだから、比較はそんなに信頼をおける指標ではない。信頼をどこに置くのか。

 

さておき。

 

出勤すると、上司がストーカー規制法の法改正の動画を眺めていて、法改正を全然追っていないのは法学徒としてはよろしくないなと思う。そうこうして、ネットのニュースの表題に同性婚を認めていないのは違憲憲法違反)というのが載っていたため、少しだけ追った。判決文が読めていないからあんまり分からないが、細かく考えてみるか。

 

ざっとニュースを追った限り、婚姻届を受理されなかったことをもって国家賠償法に基づく損害賠償請求をしたらしい。何が「損害」なのかと見たら、精神的苦痛とかなんとか。あと、訴訟戦略的に全国的に展開されている模様。

 

何故憲法違反かという法律構成としては、法の下の平等憲法14条1項)に反するということらしい。この条項は法律によって扱いを変えるのは、合理的な理由が必要だというもの。であれば、どう不合理なのかを主張する必要があるのだが、憲法22条1項の「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、」というフレーズをもってきた。この「両性」の意味はもともとの婚姻制度が戸主の同意で成立するとしていた婚姻を、そうではなく男性と女性の合意で成立するものだとしたものだが、今はさらに進んで、男性同士あるいは女性同士でも「両性」だろうという主張。

 

たしかに、もともとの「両性」がこういった事態を想定していなかったとしても、意味は時代により遷移するから、特に不自然な主張ではないように思う。国側の反論として、婚姻制度は子を生み育てるものだから云々があったようだが、とても苦しい。子をなさない、あるいはなせない夫婦でも婚姻は認められる訳で。

 

まぁ、まだ地裁だから国は控訴するだろうし、高裁がどう判断するかだし、最高裁まで行って初めて司法の最終判断みたいなところはあるから、今国がどう判断したかみたいなことは決められない。訴えられているの国で判断しているのも国な訳だが、これは社会科の話。三権分立の、立法(あるいは行政)と司法の対立。

 

ここからは法学徒ではなく一般人としての見解。夫婦別姓が合憲だと判断されたことはジェンダー云々を追っている人であれば記憶に新しいはず。夫婦別姓同性婚の違いを素朴に考えると、今構築されているそれぞれのシステムに対する影響値だと想像する。

 

夫婦別姓って、戸籍制度をどうするかに結構な影響値があるはず。例えば子供が生まれた時どちらの姓にするのか。現行だと出生届だけで済むが、悪い想像をすれば子供の姓をどちらにするのかで紛争が起こるかもしれないし、それを判断するために家庭裁判所がでしゃばらないといけないというコストが生まれるかもしれないとか、色々波及しそう。

 

翻って、同性婚は異性婚の制度に影響をそれほど与えないのではないか。もちろんもともとは子をなす単位としての夫婦みたいな部分はあるにしろ、税制での優遇ってユニットで捉えられることで国のコストが減るという文脈もあると思うから、世帯としてのユニットで捉えらるなら、中身がどの性であるかはあまり問題にならないような。パートナー云々はあくまで主観的な領域であってどういう形態であっても良い訳だが、国もとい社会からのお墨付きは同性パートナーでも当然あって良いような。この見地に至ったのはつい最近。

 

この流れで、不貞行為による損害賠償で、嫁が他の女性とまぐわったことに対して賠償責任を認めた裁判があった。貞操義務ってよくよく考えるとよく分からないのだが、ヴェニスの商人でも操がどうのとか言っているし、やはり原始宗教由来の観念なのだろうな。

 

もっと考えていくと脱線していくのだが、そもそもなんで1対1がユニットになっているのかって自然の観念ではないよなとか、この観念って所有価値が前提とされているのだろうなと思うわけで。ちなみに僕はパートナーとまぐわっている(だろう)人を一方的に好きなのだが、まぁ一方的である限り問題ないだろうなと思う。僕が相手を好きであることと、相手の現実はあんまり関係ない。ただ、それを表して受け入れられているのは全く意味不明。

 

僕がまぐわいを相手との距離が近いとしていないからかもしれない。

 

真面目な話も書けるのですとするつもりが、最後の方がやや怪しい。性自認で少数とされている人を承認することと、社会のシステムにおいてどこまで汲み取るかは別問題だから。正味、性自認ってちゃんと分けられるものでもなく、濃淡の話だと思うし。であれば、生物学的分類で分けるのは合理性があるとは認めざるを得ない。後は程度の話になってくる。

 

 

引き続き、メディアの話。

 

どうやら「術」という技術は、人が自分を伝えるということではなく、人を拡張するという意味だったらしい。だいたい同じことだとは思うが。

 

自分が拡がった気になれる道具としてのメディア論。移動手段だと分かり易いし、外部媒体としてのパソコンとかスマホとか。自分の存在が外に拡がっていると思える。馴染み過ぎていてあえて分けることなんてもはやできないだろうが、自分の存在が曖昧になるものだろうな。

 

人間論で、プラトンから現代まで、人間は生物として欠陥品だから、言葉と技術という補償があったということらしい。武器もないし裸だから外界に対する適応能力もなく、せめてという神様の慈悲。個としては生き抜く術がないから、言葉を高度にして群れが細やかになったというストーリーは物語としてはとても分かり易い。あと、メッセージはマッサージで、外部のメディアによって人間が作りかわるというのも、素朴な自分だと思っている自分が、メディアから作られているものと気付けないことを表している。外から全く無関係の自分を想定できる人って存在するのだろうか。

 

新刊枠で、「生まれたあとのことで、人生をむなしく感じないといけないなんておかしい」みたいなフレーズがあり、たしかになと思った。僕の人生は空虚だが、それと楽しんでいるのは別の事。

 

こんな感じでおしまい。

 

おやすみなさい。

 

 

媒体

 

 

 

毎日毎日楽しさが上限突破しているなと思ったら、ちょっと全盛期の感覚と近い。全盛期とは小学生時代。誰とも比べられずに世界を過ごしていた。正味なんで皆しんどそうなのだろうとは思っていた。対抗した同級生が漢字テストで勝負だーっといきりたち、受けてろくに勉強せずに同点の86点で収めた4年生時。あんなに勉強したのにと言っていたが、僕はきっとこの頃から漢字のカタチが好きだったのだろうな。

 

何が良かったって、順位がつかなかったこと。好きなように世界(科目とか)を収集すればよかった。ド田舎でも中学生からは順位が付いてしまう。最初のテストでうっかり1位(言っても全部で30人くらい)を取ってしまい、何も嬉しくなかったことを思い出す。ほんとになんか嫌だった。今言語化するのであれば、そんなつもりではやってないということだった。それから高校になるともっとしんどそうになってきて、しんどい思いをしてなんぼみたいなことになり一生懸命擬態してみたが、どんどんストレスが溜まって世界が閉じていく。

 

世界というか日常はしんどいものだという観念は一種の宗教的なものだという説。一般論は当然理解できるが、僕はそういう風には生きられないことにやっとこさ気付いた。読書タイムに英単語帳も入っているのだが、高校の時に毎週のやらされていた単語テストより遥かに定着している。

 

たぶん、このしんどさって、しんどいことだから価値があるということなのだろう。分かるが、個人的世界では知ったことではない。しんどいから何か余計にできるなんてこともなく。

 

まぁ「せねば」で行動できて定着できるのであれば、それは財産として積み上がるのだろうが、僕の文章はすくなくとも書か「ねば」でやってないから重くはならない。物を持っていると手がふさがって他を手に取る余白がなくなる。

 

 

さておき。

 

あんまり観念的な話を続けても退屈だろうから、現実的な話。帰り路のルートの1つに自然の坂が拡がっている。今のシフトは早番だからまだ世界が見える。土筆が視認され、春めいてきたなというところ。笠を取る作業を想い出す。味は、、味付けの味という感じよな。濃いめの煮物味。山菜で言えばうどとかタラの芽の天ぷらが好きだった。

 

本日の晩御飯。メインは豚こま肉ともやしの中濃ソースケチャップ炒め。サラダはレタスと安かったトマト半分に目玉焼きの半分を乗っけて。副菜はレンチンきのこ3種のバター醤油おかかゆかり和え。この前作ったのより完成度高い。二回続けると、やっぱり改善点が分かっている模様。

 

ふらふらと前置きを書いたが、やはり文字通りの本題。

 

シェイクスピアの次の本を買いに駅ビルのリブロに行った昼休み。近くの公園でお弁当食べている最中は、ここでは出てこないある人のことを考えていた。あと、人が情報だとすると体もメディアよなとか。結局既読しかなく、ブックオフに向かう。ブックオフでは「リア王」と「オセロー」があり、どうせ両方読むのだからと両方購入。どちらから読むかは昨日の自分が予言した通り。

 

まだ全然最初の方でさっぱり筋は読めていないのだが、家督を3人の娘に相続させて云々みたいな話。長女と次女は色々感謝の言葉を尽くしている。その後末娘のオフィーリアが「私からは何も」と言ったら、相手が「無からは無しか生まれないぞよ」みたいなことを返していた。たしかにそうだよな。「無から有」を感じてしまうのはある意味狂っている。本当に無なのかはさておき。

 

ほんで、「人類と哲学」。すげーどきどきする本。

 

メディア論はまだかまだかと読み進めたが、今日読んだところは人類の進化が9割だった。あんまり興味がないというか、スペックが高くなったところで今と何が変わるのかについて疑問がある。人間も遺伝子操作をして能力が高くなるがその恩恵を受けられるのは上流階級だけで、上流階級がネットワークを支配して、その下はネットワークに支配される。産業は機械で賄えるようになるから被支配階級は無用階級と呼ばれて薬物とゲームで暇潰しをするのだとか。何か今と違いはあるのだろうか。苦しい労働から解放されるという意味ではこっちの方が良いのかもしれない。

 

ベーシックインカムにも通じるところありそうな気がする。こういう話、直近の元恋人さんと話したことがあったのだが、この人は芸術肌で楽観的な人だから、時間が空いた分を芸術に使う人が居て芸術関係が盛り上がるという説だった。確かに、1つの筋としてはありうるかもしれない。おそらくそういう人も出てくるに違いない。ただ、何も返ってこないという前提条件があった上でも何か創作活動をするという人が居るのかどうか。まぁこんな現実になれば一般論も変化しているだろうから、予測はできない。連綿と続いてきた相対化から解放されることがあるとは想像できないが。

 

なんとなくここで「ヲタク」を想うのだが、自分の興味を突き詰めているという意味では僕も通じるところがあるとは思う。ただ、なんだかんだ同じ領域を共有したいという意味では一般社会の連帯とあまり変わりない気がする。懇意にしている理容院の理容師さんもそっちで、仲間意識を持たれている節がある。けど、領域を共有できる人なぞ求めていない。領域は別個であっても交流できるくらいが良い。

 

メディアの話。

 

メディアは情報を伝える術だと書いたのは独自論かと思ったら、学者が書いたメディア論の中で、メディアとはメッセージであり技術だというフレーズがあるらしい。こういう符号にどきどきする。功績ではなく発見。

 

メディアのもともとの語源は、中間項だとのこと。中間項という概念も考えていくとよく分からないが、要は、「そのもの」ではないが、「そのもの」とこれを捉えた主体の間にあって、これがないと認識できないとかそんなものだと思われる。

 

芸術に引き直すととても分かりやすい。役者は当人の動き、声、諸々を中間項として、劇「そのもの」の中間項になるとか、写真家は流れゆく世界「そのもの」を切り取ることで、その視覚情報を中間項にするとか。

 

僕は別に芸術家ではないが、言語は中間項だとしている。「ぼくそのもの」ではないが僕を顕す術。顕したいという俗っぽい欲求はなく、単なる自分の挙動の確認作業。共有なんてされたくない領域の言語化

 

で、「メッセージ」のこと。これって日本語に直したらななんなのだろう。メッセージを受信しましたという文脈だと「手紙」だろうがメディアの文脈で言えば、「言説」になりそう。この流れだと「伝える」ことに重きが置かれている感じ。

 

自分を伝えたいという素朴な感覚は分かるが、これを中間項の概念にのっけると、言葉自体が自分だと錯覚しそうな感じがある。言葉で表した自分が自身だみたいな。これは危ういような気がする。虚構に自分が持っていかれるというか、人の言葉も虚構に見えていくというか。

 

個人的にはこの「メッセージ」は概念としておきたい。感情とか意志は別に言葉にしなくても現実的挙動を中間項にして読めなくはないが、人の中にある概念は言語化されないと見えないから。

 

自由になり過ぎか?

 

おやすみなさい。

 

異分子

 

 

 

上限いっぱいの言葉を人に送るのは慣れないが、たぶんここを逃すともうそんな人は存在しないような気もする。ただ、良いことなのか悪いことかというと判断がつかない。

 

ともあれ。

 

夢を見た。1つ目。昨日書いたからか、部活が舞台っぽい感じ。自分の体をどう動かせば効率的にテニスボールに力を乗せられるのか、みたいな。今思うと普通にやっていたような気がする。集中はできていなかったが、練習時のボレーでボールが積んである的に当てるのは結構得意だった。ラケット面の角度と力加減とタイミング。そういや大学時代にやっていたダーツもそんなところあるな。メインは1日後の自分に起こる現象が分かるという予知能力というか予言能力を得た話。使えないなと思った。それくらい予知能力なくてもだいたい予測付くわって。自分の体をどう動かしたらどうなるか、みたいな意味では通じているのか。

 

2つ目。中学校くらいが舞台で、大量の人物がエスカレーター(階段?)で体育館のようなところに集まっている。で前の女の子の露出度が高くてぎょっとして、集まってみると男も皆水着だった。僕だけ短パンTシャツの服を着ている。何か社会的な流行りで、これから男陣が水着で踊るのだろうなということは分かる。だいぶ古いがウォーターボーイズみたいなイメージ。で、僕はこの空気をぶっ壊して、「これから何をするかは分かっているけど、一応言っておきます、僕は踊るのは嫌です」と言った。ブーイングの中、1人の男の子が、「いや、でもその服装で踊るの、ださくね?」と言ってくる。この中学の同級生に対して、「〇〇〇〇は話が通じないから嫌いだ」って返して、殴られたところで起きた。この人の名前の語感は好きなんだけどな。勇が輝く。

 

目が覚めた後に、なんで僕は話が通じないと評したのだと分析した。直感は言語化できてなんぼである。僕が踊るのが嫌だと言ったことに対して、この「ださい」は踊ることを前提としていて、噛み合っていないことに対しての反応なのだなと。僕が基本的に人と噛み合わない人だからなのかもしれないが、こういうのを求めて話している人あんまり見受けられない。自分の世界に在る程度一致するか一致しないことを諦めているか。

 

夢と現実は個人的な世界における限り、だいたい通じている。

 

 

さておき。

 

仕事の話は特にない。人の発話って面白いなとは思う。自分の発話ももう少しコントールできるはず。結局のところ、中身を外に顕せるかどうかって技術の問題で、好印象を受けるように話すというのも特に人格の話ではない。ここで鍛えておけばほんとに出したくなった時にも滞りないかもなとは思うが。

 

職場の駅ビルにあるリブロの、「このご時世」コーナーは確実に1冊読書に入っている。「サピエンス全史」を昨日読み終えた。この本は無茶苦茶面白くて、ヒトの全体的な傾向史がすっきりする。なんとか主義がどういう成果をもたらしたのかとか、幸福とはなんぞやとか、最終的にはSFみたいな話になり、ニーチェがいう「超人」ではないサイボーグ的な「超人」が顕れるだろうみたいな予言書的でもある。

 

幸福といえば、行動経済学。主観的幸福度を傾向的に探るみたいな話になっている。理解はできるが、さっぱり感覚には引っかからない。所得とか結婚とか何かイベントごとが主観的な幸福度に影響するのかという話で、サンプルはアンケートでしかない。アンケートが正直に回答されるものなのかという素朴な疑問とは別に、幸福かどうかってそもそも段階評価できるのかと思う。僕がこのアンケート用紙を書くことになったら、全部10にする。これってたぶん、変に基準を作ってその基準を満たしているとか満たないが幸福度なのだろうが、これを決めることで何か効用があるのかと思う。そんなことより、ちゃんと自分であった方が良いのでは。

 

主観の根拠は自分だが、自分ってそんなに自明なものなのかというのが僕の説。説と書いているのは、僕は自分のものさしを確固としておらず、どれだけ見解を積み上げても自分でご破算にしてもう1回創り直しても良いと思えるから。こんな不確かな世界で依拠できるものがあるというのは素晴らしいが、あんまり他人を巻き込むのもどうなのだろう。

 

ヴェニスの商人も終わってしまった。もっとあるかと思ったら解説だった。結局何だったのだろう。弱みを握って手綱も握るという女心だったのか。時代を想像するに、女性にもそういう強かなところがあるのだということなの、か? 考える鍋に入れておく。マクベスロミオとジュリエットハムレットは読んだから、次は何だろう。リア王か?

 

そろそろ本題。

 

サピエンス全史は外国の学者さんが著者だったのだが、今度はそれを踏まえて書いている日本の文学者さんの本。「哲学と人類」。プロフィールを見たら叔父が勤めている大学の名誉教授だった。

 

まだ冒頭辺りなのだが、このご時世と、ミッシェルフーコーの監視できる収容施設の話を繋げている。この時代は人が人を監視するという世界だったが、今はAIが人のデジタルでの挙動を収集してデータベース化している管理社会だという話。素朴な物理的世界から逃避して自由になったと思ったらデジタル的にどう挙動したかによってデジタル的な人格が収集されているから、監視の次元が変わっただけ。

 

この話読んでいて、ふと、ヒトってそれほど完全に自由になることなんて求めてないから、それで良いではと思った。何かに監視されることで自分を規律することができると思えるのは原始宗教由来。神様が見ているか、社会が見ているか、AIが見ているかという違いでしかない。でも、炎上ばかり起こる某SNSを見るにつけ、一方的に監視することができる神様気分の人は多いのかもしれないな。自分が世間だみたいなものさし。もう少ししたら規制の対象にはなると思う。法律は基本的に腰が重い。動いたら世界を動かしてしまうから。

 

こういう意味では人はいつまでたっても自律できないというのも分からんでもない。大の社会人がお小遣い制とか良く分からないし。自分を管理してくれる存在を求めている感じ。

 

僕はこういう文脈で不自由性は特に感じない。そもそも物理的な死すべき物体という規制があるし、その中でどう過ごすかだけだし。

 

もっと面白いなと思ったのが、メディア=媒体の話。きっとこの本でのメインテーマだからもっと面白くなる。

 

媒体がなんぞやというとなかなか難しいのだが、ざっくり情報を伝える術ということで良い、はず。

 

歴史の時系列で言うと、自分を伝える術は文字しかなかった。この本では感覚をということらしい。それが今や、技術の発展により感覚を感覚のまま伝える術ができたのとのこと。自分が見たものをそのまま写しとった画像を呈示できるし、聴覚もそうだろうし、そのうち触覚もある。個人的には、誰か書いている言葉をコピペできるようになったのも含めたい。

 

たしかに分かるのだが、僕はこういう文脈で貼られた情報って全然美味しくないんだよな。視覚情報を芸術に昇華した写真展は凄かったが、ただ、流れる視覚情報のどこかの1シーンとか知らん。こういう情報って受け手としてもテレビで流れていく映像と同じで、ただ通り過ぎていくものでしかない。

 

僕が発話的言葉よりも文字化した言語を大事にするのは、この媒体でしか描写できない感覚があるから。単なる外界からの印象ではなく、印象を一回頭に通して再構築することに意味がある。当然、そうやって再構築されたものに味がある。確かに手法としてはだいぶ古いから現代的ではないが、人は考える葦であるという観念は忘れたくない。

 

感覚を感覚のまま発信するのであれば、たんなる受容体でしかない気がするんよな。

もっと自分を突き詰めて欲しいところ。

 

あとは、僕に何ができるかという話になってくるのか。

したいことがないならできることを考えないといけない。

 

そもそも僕の日記面白いんかなという疑問。

 

 

おしまい。