判断

 

 

 

悪いことは先に考えておく。想像力の効用。

 

読んでいる「誰か」を気にするのは、僕の言語がそういうものだから。僕の言語の上限みたいなところがある。月との距離がとても遠く感じる今宵。

 

ふと気づいたというか、現れた言葉。「十分苦しんだだろう」

面白いことが起こっている。

 

さておき。

 

語彙が固有になってくるとあまり綴れなくなってくる。

言葉は遅くて遠い。ともあれ、書かないと存在できない。

 

本日は、世界の秘密に気付いたような1日だった。自分の秘密がすなわち世界の秘密に等しい。スピリチュアルみたいな話ではなく、もっともっと物理的なこと。気付ている人が物語に化体して書かないといけない気持ちがとても分かる。ストレートに言語化できるような領域ではない。

 

しかし、僕はこういうことを素朴に書きたかったので書いてみる。

 

真面目とか本気とかは外からには見えないが、主観的にはその目的で行動に起こすことに価値があるらしいというものさしで生きてみたが、そんなことは主観的にもどうでも良いことなのだろうなと気付く。真面目を目的にしたとしても得られるものは変わらないし、この真面目は結局自分ルールに過ぎない。自分で自分に義務を課しているだけ。これは別に倫理とか社会性とは関係ないその人固有のルールでしかない。他の人がそういう風に過ごしているからと言って、必ずしも自分の中身をそうルール付けする必要はない。

 

むしろ、遊びの方が真剣にするのが人だろうという転換で、人生そのもので遊べば良いとなってきている。日本語の「遊び」の語義にある要素よな。「遊び」がない張り詰めた糸は容易く千切れるし、ほかの方向にはいけない。

 

やっぱり言語化するとありきたりになってしまうのだが、僕の場合は、自分自身についても遊んでいる。例えば左手の可能性を実践してみるとか。左手で文字を書くと癖が全くついてないから自分で教育できる。字は汚いが気にすればなんとかなるような気もする。

 

この文脈に「十分苦しんだ」というフレーズも含まれる。人を傷つけたことに対して勝手に至らなかったことして、自傷している訳。僕が誰かに対して異分子というか世界観に組み込めない人なのは分かるが、そんなことは知ったことではないで良い、はず。

 

もっと遊んで良い。少なくとも1人で居るときは。

 

ここからすれば、他人が僕を自分の立ち位置上どう扱っているかみたいなこともどうでも良い話よな。僕の存在によって自分を卑下するのであれば、たぶん他でもやっているし、それに引っ張られる必要はなかった。比較されないためには突き抜ければ良かったのだが当時は突き抜け方を知らなかった。そもそも誰かに評価されることで変動するのは自分なのか、なんて言ったら顰蹙を買うだろうからやらない。

 

 

引き続き、言語の話。

 

世界文化史のイギリスの作家さんで、上機嫌は最高の作法だとか笑顔は太陽だとか、「愛する人を得るのは至上、愛する人を失うのはその次に良い」は全面的に賛同できる。前半はそれ風の言葉を発することではなく、ある意味遊びの領域。こんなの本当にそうであるかを把握できるレーダーはちゃんと人を見てない限り搭載されない。声色とか表情でしか認識できないもの。というか、人がそうであるかなんて気にされないのが普通。不機嫌の方は危険かもしれないから敏感になるのは当たり前。

 

そうして、まさかプラトンさんと同じことを考えていたとはというところに至る。

 

ソクラテスは対話、ないし発話に人の本質が見えるということだったらしい。この人自分の文章残していないからなんとも判断つかないのだが、たしかにカウンセリングみたいな意味ではありうるとは思う。ソクラテスメソッド。発話した言葉に対してなんでそう思ったんですかって詰めていく会話。そんな会話普通ではないけど。

 

で、ソクラテスの事を書いているのがその弟子のプラトンなのだが、音声言語を至上としたソクラテスのことを言語化するのは背理なのではということがあるらしい。

 

で、当のプラトンは、言語化されるものは本当の関心事ではなく、言葉に丸投げできるようなことは表層的なものだと書いている。言葉という道具によって、人は自分の中のことを思い出せなくなるという見解はとても分かる。細部はともかく「思い出」という言葉に丸投げすれば、自分の中に記憶が存在しているとできるもの。これは外部媒体という意味だから、写真とかも当然含まれる。

 

僕は文章を毎日書いているし言霊の力も分かるが、自分の表現として言葉に丸投げはしていない。

 

言葉では自分を表現できないという見地は、他人の言葉はそれほど信頼に値しないとセットになる。よくも悪くも。一般論は言葉は自分の表現としているから問題ない。いや、そういう世界に生きられないのは大問題だが。

 

あと、僕は時系列の人の存在を言葉としては見ていない。これは割と普通のことなのだろうが、いや、違うか。言葉として見ているか。自分の中には言葉はないが、言葉にすることによって他人と共有できるようになる過去なんて、もはや当人のものではない。ただ、その人を眺めていると、その過去が当人にどういう影響を与えてきたのかは見えてくる。見えるだけでどうこうするつもりはないから見えるのだろうか。

 

そうそう、交友関係が広い人に不信感がある観念。僕が時間をかけられない多数の承認より影響を与える個人に重きを置いているから。それなりに過ごした人は全部外界の人ではない。なんで、てきとーに扱っている人を親しい人とできるのだろうという素朴な疑問。現実世界では言ってはいけない禁忌。

 

という感じで、僕の言語は、ただの一部の垂れ流しでしかない。

排泄物ではない流通物だから体裁は整える。個人的な自分はここには居ない。

 

おやすみなさい。