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毎日毎日楽しさが上限突破しているなと思ったら、ちょっと全盛期の感覚と近い。全盛期とは小学生時代。誰とも比べられずに世界を過ごしていた。正味なんで皆しんどそうなのだろうとは思っていた。対抗した同級生が漢字テストで勝負だーっといきりたち、受けてろくに勉強せずに同点の86点で収めた4年生時。あんなに勉強したのにと言っていたが、僕はきっとこの頃から漢字のカタチが好きだったのだろうな。

 

何が良かったって、順位がつかなかったこと。好きなように世界(科目とか)を収集すればよかった。ド田舎でも中学生からは順位が付いてしまう。最初のテストでうっかり1位(言っても全部で30人くらい)を取ってしまい、何も嬉しくなかったことを思い出す。ほんとになんか嫌だった。今言語化するのであれば、そんなつもりではやってないということだった。それから高校になるともっとしんどそうになってきて、しんどい思いをしてなんぼみたいなことになり一生懸命擬態してみたが、どんどんストレスが溜まって世界が閉じていく。

 

世界というか日常はしんどいものだという観念は一種の宗教的なものだという説。一般論は当然理解できるが、僕はそういう風には生きられないことにやっとこさ気付いた。読書タイムに英単語帳も入っているのだが、高校の時に毎週のやらされていた単語テストより遥かに定着している。

 

たぶん、このしんどさって、しんどいことだから価値があるということなのだろう。分かるが、個人的世界では知ったことではない。しんどいから何か余計にできるなんてこともなく。

 

まぁ「せねば」で行動できて定着できるのであれば、それは財産として積み上がるのだろうが、僕の文章はすくなくとも書か「ねば」でやってないから重くはならない。物を持っていると手がふさがって他を手に取る余白がなくなる。

 

 

さておき。

 

あんまり観念的な話を続けても退屈だろうから、現実的な話。帰り路のルートの1つに自然の坂が拡がっている。今のシフトは早番だからまだ世界が見える。土筆が視認され、春めいてきたなというところ。笠を取る作業を想い出す。味は、、味付けの味という感じよな。濃いめの煮物味。山菜で言えばうどとかタラの芽の天ぷらが好きだった。

 

本日の晩御飯。メインは豚こま肉ともやしの中濃ソースケチャップ炒め。サラダはレタスと安かったトマト半分に目玉焼きの半分を乗っけて。副菜はレンチンきのこ3種のバター醤油おかかゆかり和え。この前作ったのより完成度高い。二回続けると、やっぱり改善点が分かっている模様。

 

ふらふらと前置きを書いたが、やはり文字通りの本題。

 

シェイクスピアの次の本を買いに駅ビルのリブロに行った昼休み。近くの公園でお弁当食べている最中は、ここでは出てこないある人のことを考えていた。あと、人が情報だとすると体もメディアよなとか。結局既読しかなく、ブックオフに向かう。ブックオフでは「リア王」と「オセロー」があり、どうせ両方読むのだからと両方購入。どちらから読むかは昨日の自分が予言した通り。

 

まだ全然最初の方でさっぱり筋は読めていないのだが、家督を3人の娘に相続させて云々みたいな話。長女と次女は色々感謝の言葉を尽くしている。その後末娘のオフィーリアが「私からは何も」と言ったら、相手が「無からは無しか生まれないぞよ」みたいなことを返していた。たしかにそうだよな。「無から有」を感じてしまうのはある意味狂っている。本当に無なのかはさておき。

 

ほんで、「人類と哲学」。すげーどきどきする本。

 

メディア論はまだかまだかと読み進めたが、今日読んだところは人類の進化が9割だった。あんまり興味がないというか、スペックが高くなったところで今と何が変わるのかについて疑問がある。人間も遺伝子操作をして能力が高くなるがその恩恵を受けられるのは上流階級だけで、上流階級がネットワークを支配して、その下はネットワークに支配される。産業は機械で賄えるようになるから被支配階級は無用階級と呼ばれて薬物とゲームで暇潰しをするのだとか。何か今と違いはあるのだろうか。苦しい労働から解放されるという意味ではこっちの方が良いのかもしれない。

 

ベーシックインカムにも通じるところありそうな気がする。こういう話、直近の元恋人さんと話したことがあったのだが、この人は芸術肌で楽観的な人だから、時間が空いた分を芸術に使う人が居て芸術関係が盛り上がるという説だった。確かに、1つの筋としてはありうるかもしれない。おそらくそういう人も出てくるに違いない。ただ、何も返ってこないという前提条件があった上でも何か創作活動をするという人が居るのかどうか。まぁこんな現実になれば一般論も変化しているだろうから、予測はできない。連綿と続いてきた相対化から解放されることがあるとは想像できないが。

 

なんとなくここで「ヲタク」を想うのだが、自分の興味を突き詰めているという意味では僕も通じるところがあるとは思う。ただ、なんだかんだ同じ領域を共有したいという意味では一般社会の連帯とあまり変わりない気がする。懇意にしている理容院の理容師さんもそっちで、仲間意識を持たれている節がある。けど、領域を共有できる人なぞ求めていない。領域は別個であっても交流できるくらいが良い。

 

メディアの話。

 

メディアは情報を伝える術だと書いたのは独自論かと思ったら、学者が書いたメディア論の中で、メディアとはメッセージであり技術だというフレーズがあるらしい。こういう符号にどきどきする。功績ではなく発見。

 

メディアのもともとの語源は、中間項だとのこと。中間項という概念も考えていくとよく分からないが、要は、「そのもの」ではないが、「そのもの」とこれを捉えた主体の間にあって、これがないと認識できないとかそんなものだと思われる。

 

芸術に引き直すととても分かりやすい。役者は当人の動き、声、諸々を中間項として、劇「そのもの」の中間項になるとか、写真家は流れゆく世界「そのもの」を切り取ることで、その視覚情報を中間項にするとか。

 

僕は別に芸術家ではないが、言語は中間項だとしている。「ぼくそのもの」ではないが僕を顕す術。顕したいという俗っぽい欲求はなく、単なる自分の挙動の確認作業。共有なんてされたくない領域の言語化

 

で、「メッセージ」のこと。これって日本語に直したらななんなのだろう。メッセージを受信しましたという文脈だと「手紙」だろうがメディアの文脈で言えば、「言説」になりそう。この流れだと「伝える」ことに重きが置かれている感じ。

 

自分を伝えたいという素朴な感覚は分かるが、これを中間項の概念にのっけると、言葉自体が自分だと錯覚しそうな感じがある。言葉で表した自分が自身だみたいな。これは危ういような気がする。虚構に自分が持っていかれるというか、人の言葉も虚構に見えていくというか。

 

個人的にはこの「メッセージ」は概念としておきたい。感情とか意志は別に言葉にしなくても現実的挙動を中間項にして読めなくはないが、人の中にある概念は言語化されないと見えないから。

 

自由になり過ぎか?

 

おやすみなさい。