形質

 

 

 

人のことは一生分からないとすると、どれだけ長く近く過ごしても程度問題というか、ほとんど違いがない。であれば、どういう風に人を読むかに制限はない。

 

 

さておき。

 

今日はカレーを食べ、TKGを食べ平日で蓄えた冷凍ご飯を消費した。あと、本はいつも通り読む。フリーソフトの将棋を1日1局してみたが、少し考えられるようになってきた。本当に考えることが苦手だ。考えを深めて何処かに辿りつくということができない。直感を文字化しているに過ぎないのではないかということを常に思う。

 

あくまで「読む人」でしかないのだろうな。自分の言葉というものがないような気がしてくる。

 

僕は素朴な自分の見解を、特に固有のものとはしていなくて、色々読んだら自然とたどり着く水準くらいのものでしかないなという感じ。気付きに際限がないのは、おそらく自らの空虚性に起因している。別に好奇心とか向上心ではない、最初の人格形成が終わらないだけ。たぶん一生こうなのだろう。

 

物理的ではないが悪くない方針ではある。ということは、外からの自分がどうであるかは余所行きの服みたいなことでしかなく、もっと読めるところに行けば良い。一応、そろそろ決めてしまおうかという2年後がある。関西圏から離れ、地元にも帰らず、ちょっと過ごしてみたいところ。まぁ、読むことは今やどこにいてもできることだから、どこで物理的に過ごしているかどうかはあまり関係ないことだが。

 

「読む人」であって、「書く人」ではないのはずっと違和感があったが、やっと吹っ切れたところはある。伝えたいことがないのに書き続けているのは、あくまで、自分がもっと読めるようになる訓練みたいなものでしかない。と考えると、僕が文章を書くときに「架空」だとしても読み手を必要とする意味が腑に落ちる。だから、読み手が意識されていない文章を読むのも苦手。例えばこういうところで言えば空白行がないとか、視覚的に整っていない文章はどれだけ良いこと書いている風でも読めない。専門書であればそういうルールだから問題なく読める。

 

書物というメディアから見ると、大学はこれを生産する場なのだろうな。研究の成果を体系的文字情報に還元する。という意味で言えば僕の文章はこっち寄りかもしれない。専門家が一般向けに書いている書物みたいな。別に何の専門家でもないが。

 

要は、もはや書いても書かなくても問題がない。内心をどれだけ書いてもきりがないし、自分の中身が通ってきた人とか物をどれだけ再現しても全然色あせないし。

 

キリスト教が世界に浸透したのは、論理的に脆弱であって文字メディアによって補強されたからだという話があった。確かに分からなくもない。日本でもそういうのあったな。あれは文字メディアというよりテレビを媒介にした情報メディアだったか。自分が生きている世界の理路から外れた何かを信じたい心はどの時代にもある。そもそも自分が素朴な土台としている理路を再検証する動機なぞなく、無批判に受け入れたシステムには何か怨嗟が生じるのだろうという想像。

 

僕は、近しくなった人から新興宗教にハマりそうみたいな評価を受けたことがあるが、だいたいのことは半信半疑で信じている感はある。ただ、宗教に化体したビジネスは良くない。いや、それで救われている人も居るだろうから、一概には言えないが。

 

なんだかもう、自分の中にある話題を共有することが嬉しいとも思えなくなった。僕を読む人が気になるのは、僕と通じているかというより、その人を読んでみたいという感覚であって、何かが通じているだろうという動機もなく。人の領域には当然共有できるものもあるが、個人を突き詰めたらどうあっても誰とも共有できない部分がある。だって、肉体が取っている場はその人だけのもの(厳密に考えれば時系列的には重なることはできる)で、その人の経験はその人しか経ることができないもの。言葉で抽象化すれば共有できるものになるし、喜々としてやっているように見えるが、僕はそんな部分は読んでいない。

 

長く近く過ごした人のことが分からないというのも別に抽象論ではなく、実地。母親の中身は全然分からない。結構な読書家だったということは分かったが、あくまで僕は彼女に取って保護すべき息子でしかない。関係に名前が付いたら、当人に付着したイメージを前提としてしか捉えらない。

 

そういえば、一番長く過ごした恋人さんがそんなことを言っていた。自分は交友関係断ち切ってここに来たのだから恋人であり友人であるようになれみたいな。当時は良く分からなかった。まぁこの人が僕のまぐわい論を一変させた人でもある。肉体をどれだけ重ねたって心も重なっているとは限らない。

 

 

そういえば、この辺りに良くカラオケで歌っていた失恋の歌の歌詞に、「もしも願いが叶うならば出逢う前の2人に戻して」みたいなのがあった。確かに客観では僕に出逢わない方が良かっただろうなと思うが、主観ではどの人も僕に影響を与えた人だから、無かったら良いなぞ思っていない。全部大事な人達。

 

もうそろそろこの形式での文章はおしまいな気がする。

 

おやすみなさい。